哲学カフェって、どんな心構えで参加すればいいの?

以前書いたものを移行しました。今の考えとはちょっと違うかも。
けど、まあ、独自研究なので、話半分でお読みください。

哲学カフェでは、どう話せばいいの?

「特にルールはない!」というのが、いくら強調しても強調しすぎることはない一番大切なルールです。
これより大事なルールは「コーヒー代をきちんと払う」くらいでしょう。
とは言え、哲学カフェでは、「いい話」というものがあるのも確かだと思います。

私が思う「いい話」とは、次のどれかの要素があるものです。
①話の内容が興味深い話
②哲学カフェでの対話の流れにうまく乗った話
③その人(発言者)の生き様がよく現れた話

①の内容として興味深い話がいい話なのは、当たり前だと思います。
哲学カフェが終わっても、将棋の封じ手のように、ある人の話が心に残り、後でふとした時にその話の続きを考える。
なんていうのは哲学カフェの醍醐味ですよね。

②の対話の流れに乗った話というのは、哲学カフェを盛り上げるという面で、とても重要だと思います。
また、流れに乗った話ができるようになること自体が、その後の人生で役に立つでしょう。
哲学カフェのセールストークになってしまいますが、「哲学カフェでの実践を通じて、論理的思考ができるようになる!」という感じでしょうか。

③の生き様が現れた話というのは、私が、哲学カフェに実際に行って強く感じたものです。
正直、これまでの話の流れも断ち切って、だらだらと、何だかわからない話をする人がいるなあ、なんて思う時もあります。。
だけど、聞いていると、そこに、話したくなる理由、というか、話さざるをえない必然性みたいなものを感じるときがあります。
そうしたとき、そこに人間の存在の偉大さというか、凄みみたいなものを感じてしまいます。
人間の生(ナマ)の深いところに触れることができる、そういう話も哲学カフェにおけるいい話だと思います。

ということで、少なくとも、いい話の答えはひとつではないので、あまり気にせず、話せばいいのではないでしょうか。

ちなみに、哲学対話で重要と言われる「批判的思考」「創造的思考」「ケア的思考」に当てはめると、
①と「創造的思考」、②と「批判的思考」、③と「ケア的思考」がつながると思います。

哲学カフェでは、他のひとを批判しちゃいけないとか、色々ルールがあるみたいだけど?

哲学カフェでよく言われるのはこんなことです。
・難しい哲学用語を使わない。
・人の話をさえぎらない。
・人を否定しない。
ルールがひとつもない哲学カフェもありましたが、私がいくつか参加してみたところ、こんなことを冒頭に言われることが多かったです。
他にも、自分の意見が変化することを楽しむ、とか、心構えの説明がありますが、発言するにあたってのルールは、だいたいこんな感じだと思います。
だけど、哲学カフェは会社や学校ではないので、こういうルールは破ってもいい、というのが重要です。
私は、哲学カフェには「特にルールはない!」と言ったのは、哲学カフェが、こういうルールがあると冒頭で説明したとしても、なお、そのルールは破ってもいいということです。
お金を踏み倒したり、人を殴ったりというのは当然ダメですが、そういう法律に反することでなければ・・・好きで来ている哲学カフェなんですから。

だけど一方で、一応、そういうルールがあるということは重要です。
まず、ルールを破り続けたら、次回の参加は断られるかもしれないし、最悪、途中で退席を求められるかもしれません。参加者にルールを破る自由があるように、主催者にも参加者を排除する自由があります。そのリスクは考えたほうがいいでしょう。
また、これらのルールが、本当は何を意味しているかというのも重要です。
実は私は、これらのルールは、文字どおり解釈するするなら、少々問題があり、本当は少し違うことを言おうとしているのではないかと思っています。

「難しい哲学用語を使わない。」について。

これは、本当は使ってはいけないのではなく、「難しい言葉を使ったら、とことん、その解説はお願いしますよ。本当にその覚悟はありますか。あと、偉い人の言葉を使うと、議論が飛んじゃって対話が面白くなくなっちゃうこともあるから注意してね。」というくらいの意味だと思います。
だから、もし話したいことが難しい哲学用語を使わなければ伝えられないことだとしたら、破ってもいいルールだと思います。

「人の話をさえぎらない。」について。

これは、「話したいと思っている相手の気持ちを尊重しましょう。」というくらいの意味だと思います。だから、議論が盛り上がっているときなど、明らかに相手も、議論をさえぎられるデメリットより、新しい発言をもらえるメリットのほうが大きいと思っているだろう状況なら、問題はないと思います。
ここで難しいのは、朗々と気持ちよさそうに長時間、何度も話している人の話をさえぎることの是非です。
私は時々、がまんできず、話に割って入ってしまいます。これは、他者の尊重が重視されるふつうの哲学カフェでは問題となる行為です。だけど、正直、こっちの他者も尊重してくれよ、と言いたくなります。難しいです。

「人を否定しない。」について。

これは、「相手の人格を否定するようなことは言わない。あと、発言自体を否定する場合も、否定されることに慣れてない人も多いからやんわりとね。」というくらいの意味だと思います。
だから、相手や場の雰囲気を見て、ここはいけるな、と思ったら、相手の発言を否定してもいいと思います。というか、間違えていると感じる方向に話が進んでいくのをだまって放置するなんて、哲学対話ではなく、茶飲み話だと思います。

じゃあ、なんでこういう言い方をしているの?

まず、多くの人にまず体験してもらうためには、トラブルがないほうがいい、ということはあるでしょう。
しかし、それだけではなく、奥底には、哲学対話とは、波風立てずに仲良くあるべき、という変な誤解があるように思えてなりません。
きつく言えば、ケア的思考というものを誤解しているというのでしょうか。
ケア的思考とは、この対話の場をケアするということのはずです。それは、自分が対話をがんばって続けるということであり、相手にも対話を続けてもらえるよう配慮するということであり、皆でこの対話の場を有意義なものにしようと努力することのはずです。だから、口角泡をとばし、殴りかからんばかりのケア的思考に満ちた哲学対話があってもいいと思います。

まあ、その程度のルールだからあまり気にしなくていいということです。

どこまで他の人の話を聞かなければならないの?

哲学カフェは、参加者が10人いたら、自分が話せるのは、だいたい10分の1です。
2時間の哲学カフェなら12分です。残りの108分は誰か他の人の話を聞いていなければなりません。
内容が面白ければそれもいいけど、そうでもない人も確かにいます。そして、そういう人に限って話が長かったりします。時間が無限にあるならいいけど、哲学カフェというのはだいたい、もう少し時間があったら、というところで無情にもタイムオーバーとなります。
そんなとき、どうすればいいのでしょうか。
結論としては、どうしようもないということになります。運が悪かったと思い、あきらめましょう。
だって、大人同士、趣味で集まっているのに、「話が長いから短くしろ。」なんて言えませんから。

そんなとき、哲学カフェ的な解決方法があると思います。それは、「どうして人は長く話したくなるのか。」にテーマを切り替えてしまうことです。・・・というのはさておき、もう一つの解決方法として、その人が長く話したくなる理由などを丹念に観察し、その人の全てを捉えてみようとする場に切り替えてしまう、というのはどうでしょうか。
よく見てみると、その人なりのテーマへのこだわりがあったり、また、哲学カフェというものへの愛が感じられたりします。そして、そう考えると長く話すからこそ伝わるものがあるように思えることもあります。そういう、対話の相手の全てを極力受け止めようとする態度こそが、ケア的思考なのではないか、とも思います。
ただ、心が狭い私としては、進行役の強権的な仕切りを期待しちゃうこともありますけどね。

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