筑波大学哲学カフェ「ソクラテス・サンバ・カフェ」(茗荷谷) (2016年7月24日(日))

過去の参加レポです。

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筑波大学の先生が主催するソクラテス・サンバ・カフェが久しぶりに東京で開催されるので行ってみることにしました。サンバといっても情熱的に踊ったりしないです。多分、ソクラテスが自分の哲学を産婆術としたことが由来。けどダンスみたいに軽やかにって意味もありそう。
行くまで知りませんでしたが、大学の公開講座としての位置づけもあるようです。

前日、ポケモンGOを始めたので、うきうきとポケモンを集めながら会場の筑波大学東京キャンパスに向かいました。初めて行きましたが、公園が隣りにあり、いい感じのロケーションでした。(いい感じというのはポケモンがたくさんいるという意味ではないです!)
大学の教室ということで少々緊張して座っていると、どんどん人が集まり、最終的には20数人の参加者と4人の教員という経験がないような大人数でした。男女比では男性のほうが少し多く、年齢層は幅広く、定年後の方が多そうな感じでした。どうも大学の公開講座として来た方が多いようです。
机は外に出し、いすだけで輪になるという、がっつり対話するぞ!というスタイルでした。
最初に全員が輪になり1分くらいで自己紹介。先生!という感じの人も、同じように自己紹介してるのがかわいくて、なんだか面白かったです。
その後、ふせんに今回のテーマである「死」について何でもいいから書いていくという作業。壁には多分100枚くらいの付箋が貼られて壮観でした。
そして、4人くらいのグループに分かれ、付箋をもとに話し合いが始まりました。引き続き、ワールドカフェみたいな感じで他のグループの話を聞きに行き、また先ほどの4人グループで話し、そこからグループを離れ、自由に色んな人と話す場が設定され、最後に、また輪になって全員で1分ずつ一言。と、色々と動き、話し、飽きさせませんでしたね。締めでは哲学者のいくつかの言葉というお土産までありました。これも興味深かったです。
これだけの人数で、どのように話す機会が確保されるのだろう、と思っていたけど、こういうやり方もあるのか、と感心しました。確かに参加した感が高かったです。

話の展開としては、要所要所で先生方が話を整理してまとめてくれて、最後の哲学者の言葉というお土産にまでつながり、多くの人が帰りには何かを得ることができたのではないかと思います。
僕としては、自由に相手を選んで話す時間帯に、相手に選んだ大学の先生が、免疫細胞が死んだ細胞を食べるということを比喩に、生のなかに瞬間瞬間の生と死があるという話をしたのが心に残りました。

一方、これだけ参加者が参加し、話を広げさせておいて、どこまで回収できたのかな、という疑問も生じました。どうしても、付箋を貼るフェイズ、グループで話すフェイズ、別のグループで話すフェイズ、と段階が変わるたびに、連続性が途絶えてしまうのです。先生が整理して流れを受けてはくれるのですが、整理するということは切り捨てることでもあります。
それを象徴していたのが壁の付箋です。先生は壁に貼られた100枚くらいの付箋から、十数枚の付箋を別の場所に移し、整理に使ったのですが、壁には、最後まで、先生が使わず残された付箋が数十枚貼られたままになっていました。それは、数多くの省みられなかった参加者の思いのように感じました。
ただ、それは、この場の欠点ではないと思います。先生の導きがあったからこそ、あるところにまで対話が到達できたとも言えるのですから。放任型(あえて言えば)の哲学対話がノーマルエンジンだとしたら、今回の哲学対話はターボエンジンだったように思います。少々無理をしてでも大胆にターボスイッチを入れアクセルを踏んだからこそ、対話はある地点に到達し、成果を獲得できた気がします。参加者にとっては、成果を手に入れることは、対話自体と同じくらい、もしかしたらそれ以上に必要なことなのかもしれません。

僕は対話には拡散と収斂という動的な流れがあり、そこが魅力のひとつだと思っています。そうだとするなら、付箋が100枚も貼られるほど大きく拡散し、そして最後には哲学者のいくつかの言葉にまで収斂するというのは、大胆でかっこいい。
そして、この拡散と収斂は、この日のテーマであった生と死の話をするのにぴったりだったと思います。生と死はぴったりと癒着し、刹那に誕生と死滅のサイクルを繰り返していく。それならば、今日のこの省みられなかった付箋の言葉は思考の死であり、その死を苗床として新たな思考が生まれた、とも言える。そんなことを思いつきました。

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