東京メタ哲学カフェに進行役として参加してきました(2018年9月16日)

東京メタ哲学カフェに進行役として参加してきました。
参加人数が4人ということでこじんまりしていたのでやりたい放題やらせていただき、個人的に収穫が大きかったので備忘録的にメモ。

まず、東京メタに参加するのが久しぶりだったので、最初に、東京メタの代表者である本間さんに、この東京メタは今どうなっているのか聞いてみました。本間さんの言葉ではなく、あくまで僕の理解なのですが、こんな感じ。

参加者その1:哲学カフェをやっている人・やりたい人
ニーズ:
1運営していて感じる具体的な悩みについて話したい
2哲学カフェや哲学対話そのものについて話したい

参加者その2:哲学カフェをやりたいとは思ってない人
ニーズ:
3哲学カフェ全般の情報を得たい
4テーマはともかく哲学対話をしたい(普通の哲学カフェと間違えて来ちゃった方)
5主催したくはないが、哲学カフェや哲学対話について(批判的に)話したい

で、実際、1と2については、回によって違いはあるけどバランスよく行われていて、3についても丁寧に対応されていると感じました。
まあ、4はともかく、問題は5だなあ。
実際主催している人(主催したい人)と、外から捉える人では、どうしても問題意識は違って、難しいところはあるけど、一方で、両者が出会う場も貴重な気もするなあ、と。

また、本題に入る前に興味深い話があったのでメモ。
参加者から「自分の言葉で話すってどういうこと?」という問いがあり、まず、その話をしました。
個人的に興味深かったのが、自己(不)一致という話。これは心理系の用語で、感情や思考といった自分の内面がうまく外的に表現できていない、という話のようですが、僕なりに気付いた問題意識を更に厳密に言うならば、「自分の感情や思考について、まだ自分自身が気付いてない」という問題。多分、無意識とか潜在意識とかといった話につながるのだろうけど、こういうことを対話の場面でどう取り扱ったらいいのかなあ。僕の理解だと、対話というのはあくまで言葉で行うものだから、せめて潜在意識が顕在化して内なる言葉として把握されないと土俵に乗りようがないと思うのだけど、本当にそれでいいのかなあ。(振る舞いや眼差しや態度といったものも、対話の相手に伝わった時点で、記号化された言語だと思うので・・・)

と紆余曲折しつつ1時間くらいしたところで本題に。
テーマは「発言しない人に発言を促すのは避けるべきか?」です。
この問題は、オスカル・ブルニフィエという人の話として哲学プラクティス学会でも取り上げられたそうなので、学会に出席した方に聞いたところ、彼の意見は、「ともに対話する場なのだから発言を促していい。」という方向だったとのこと。僕もほぼ同意見なので、そっちの方向に話を持っていきました。
多分、その方向性は基本的に正しいと思う。
だって哲学対話は対話する場なのだから、発言したくない問題も、
進行役「Aさん、発言はありますか。」
Aさん「○○だから発言したくないです。」
進行役「どうして○○なんですか。」
Aさん「そこは△△なので説明したくないです。」
進行役「わかりました。」
というふうに対話によって解決すればいいと思うのです。
発言を促すことについて「発言しにくいと思っているときに進行役に促してもらえると助かる。」というプラスの効用についての意見もあったし。
発言したくない理由を発言すること自体がかなりのストレスになるとか、発言を促してばかりいたら対話のテンポが崩れるとか、現実的なテクニック面の問題は残るけど、基本的には発言を促すのはOKというのは揺るがないように思います。

だけど、だけどですよ。もやっとしたものが残るのです。
対話の場だからって、本当に全てを言葉で解決しちゃっていいのかな、と。
少なくとも、そこには少し前に話が出た「潜在意識」のような問題が残るのではないか。
そういった言葉で摘み取れない何かを無視し、哲学対話の場から除外してしまったら、要は、哲学の営みから、言葉以外のものを除外してしまうことになる。
それって、哲学としてすごくつまらない。だって、その哲学は「すべては言葉で表現できる。」ということが大前提になっちゃう訳ですから。前提がある哲学なんて哲学じゃない、とも思うのです。

言葉にできない何かとして僕が最有力候補だと思ったのは、話のなかで出た言葉を使うなら、「思考のテンポ」です。人によって言葉が浮かび上がるのにかかる時間は違うし、その結果として、その言葉に乗せる重みも違う。そんな違いを進行役は大切にすべきなのかもしれない。

ある参加者の方が言っていたけど、「哲学カフェのルールというのは事前にしっかり決めるべきものじゃなく、その場で確認しつつ判断するべきでは。」というのが、ある意味正解なのかも。
哲学カフェは生身の人間同士の営みだから楽しい。だから、その場の人間同士が生身で決めようぜ。という感じ。

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