哲学カフェの考察


哲学カフェを知っていて、ある程度考えたことがある方が読んだほうが面白いと思います。
ただ、哲学カフェのルールのところなどは、まだ未参加だけど、参加のスタンスがわからなくて不安を感じたような方にも参考になるところはあると思います。
ただ、あくまで独自研究です!関係者の中には不快に感じる方もいるかもしれませんが許してくださいね。

哲学カフェ参加の心構えとルール

「特にルールはない!」というのが、いくら強調しても強調しすぎることはない一番大切なルールです。
これより大事なルールは「コーヒー代をきちんと払う」くらいでしょう。
とは言え、哲学カフェでは、「いい話」というものがあるのも確かだと思います。
私が思う「いい話」とは、次のどれかの要素があるものです。


①話の内容が興味深い話
②哲学カフェでの対話の流れにうまく乗った話
③その人(発言者)の生き様がよく現れた話


①の内容として興味深い話がいい話なのは、当たり前だと思います。
哲学カフェが終わっても、将棋の封じ手のように、ある人の話が心に残り、後でふとした時にその話の続きを考える。
なんていうのは哲学カフェの醍醐味ですよね。


②の対話の流れに乗った話というのは、哲学カフェを盛り上げるという面で、とても重要だと思います。
また、流れに乗った話ができるようになること自体が、その後の人生で役に立つでしょう。
哲学カフェのセールストークになってしまいますが、「哲学カフェでの実践を通じて、論理的思考ができるようになる!」という感じでしょうか。


③の生き様が現れた話というのは、私が、哲学カフェに実際に行って強く感じたものです。
正直、これまでの話の流れも断ち切って、だらだらと、何だかわからない話をする人がいるなあ、なんて思う時もあります。。
だけど、聞いていると、そこに、話したくなる理由、というか、話さざるをえない必然性みたいなものを感じるときがあります。
そうしたとき、そこに人間の存在の偉大さというか、凄みみたいなものを感じてしまいます。
人間の生(ナマ)の深いところに触れることができる、そういう話も哲学カフェにおけるいい話だと思います。


ということで、少なくとも、いい話の答えはひとつではないので、あまり気にせず、話せばいいのではないでしょうか。


ちなみに、哲学対話で重要と言われる「批判的思考」「創造的思考」「ケア的思考」に当てはめると、
①と「創造的思考」、②と「批判的思考」、③と「ケア的思考」がつながると思います。

哲学カフェでよく言われるのはこんなことです。


・難しい哲学用語を使わない。
・人の話をさえぎらない。
・人を否定しない。


ルールがひとつもない哲学カフェもありましたが、私がいくつか参加してみたところ、こんなことを冒頭に言われることが多かったです。
他にも、自分の意見が変化することを楽しむ、とか、心構えの説明がありますが、発言するにあたってのルールは、だいたいこんな感じだと思います。
だけど、哲学カフェは会社や学校ではないので、こういうルールは破ってもいい、というのが重要です。
私は、哲学カフェには「特にルールはない!」と言ったのは、哲学カフェが、こういうルールがあると冒頭で説明したとしても、なお、そのルールは破ってもいいということです。
お金を踏み倒したり、人を殴ったりというのは当然ダメですが、そういう法律に反することでなければ・・・好きで来ている哲学カフェなんですから。


だけど一方で、一応、そういうルールがあるということは重要です。
まず、ルールを破り続けたら、次回の参加は断られるかもしれないし、最悪、途中で退席を求められるかもしれません。参加者にルールを破る自由があるように、主催者にも参加者を排除する自由があります。そのリスクは考えたほうがいいでしょう。


また、これらのルールが、本当は何を意味しているかというのも重要です。
実は私は、これらのルールは、文字どおり解釈するするなら、少々問題があり、本当は少し違うことを言おうとしているのではないかと思っています。

これは、本当は使ってはいけないのではなく、「難しい言葉を使ったら、とことん、その解説はお願いしますよ。本当にその覚悟はありますか。あと、偉い人の言葉を使うと、議論が飛んじゃって対話が面白くなくなっちゃうこともあるから注意してね。」というくらいの意味だと思います。
だから、もし話したいことが難しい哲学用語を使わなければ伝えられないことだとしたら、破ってもいいルールだと思います。
これは、「話したいと思っている相手の気持ちを尊重しましょう。」というくらいの意味だと思います。だから、議論が盛り上がっているときなど、明らかに相手も、議論をさえぎられるデメリットより、新しい発言をもらえるメリットのほうが大きいと思っているだろう状況なら、問題はないと思います。
ここで難しいのは、朗々と気持ちよさそうに長時間、何度も話している人の話をさえぎることの是非です。
私は時々、がまんできず、話に割って入ってしまいます。これは、他者の尊重が重視されるふつうの哲学カフェでは問題となる行為です。だけど、正直、こっちの他者も尊重してくれよ、と言いたくなります。難しいです。
これは、「相手の人格を否定するようなことは言わない。あと、発言自体を否定する場合も、否定されることに慣れてない人も多いからやんわりとね。」というくらいの意味だと思います。
だから、相手や場の雰囲気を見て、ここはいけるな、と思ったら、相手の発言を否定してもいいと思います。というか、間違えていると感じる方向に話が進んでいくのをだまって放置するなんて、哲学対話ではなく、茶飲み話だと思います。
まず、多くの人にまず体験してもらうためには、トラブルがないほうがいい、ということはあるでしょう。
しかし、それだけではなく、奥底には、哲学対話とは、波風立てずに仲良くあるべき、という変な誤解があるように思えてなりません。
きつく言えば、ケア的思考というものを誤解しているというのでしょうか。
ケア的思考とは、この対話の場をケアするということのはずです。それは、自分が対話をがんばって続けるということであり、相手にも対話を続けてもらえるよう配慮するということであり、皆でこの対話の場を有意義なものにしようと努力することのはずです。だから、口角泡をとばし、殴りかからんばかりのケア的思考に満ちた哲学対話があってもいいと思います。

まあ、その程度のルールだからあまり気にしなくていいということです。

哲学カフェの人数(哲学対話と自問自答の違い)

街で行われている哲学カフェについては、4人くらいでも楽しい、とか20人くらいでも面白い、とか色々な意見はありますね。
学校の哲学対話だと、1クラス30~40人というベースがありそうです。
ボク個人の意見では、4、5人から10人くらいがベストのような気がします。


という話はさておき、もう少し独自研究な話をしますと、「一人でも哲学対話はできます。」


例えば、哲学カフェでこんな会話があったとします。
Aさん「愛と恋は何が違うのかな。」
Bさん「愛は家族との間の家族愛もあるけど、恋は恋人との間でしかないよね。」
Cさん「それじゃあ、恋人に対する感情では、愛と恋の違いはあるのかな。」
Dさん「今すぐ会いたいっていうソワソワした気持ちが恋で、大切にしたいっていう落ち着いた気持ちが愛だよ。」


一人で哲学対話をするとは、こんな会話を一人っきりで行うということですね。
独り言っぽくて、なんだか気持ち悪いけど、ちょっと状況を変えて、こんな感じだったらどうでしょう。


Aさん 夕食後、歯を磨きながら「愛と恋は何が違うのかなあ。」と、ふと思う。
Aさん 風呂に入りながら「愛は家族との間の家族愛もあるけど、恋は恋人との間でしかないよなあ。」と呟く。
Aさん 風呂を出て、手元のメモ用紙に彼女の名前を書きながら「それじゃあ、○○(彼女の名前)に対する感情では、愛と恋の違いはあるのかなあ。」と、メモに「愛」「恋」と書き足す。
Aさん 寝ようとしたけれど寝れず、彼女にメールを打ちながら「今すぐ会いたいっていうソワソワした気持ちが恋で、大切にしたいっていう落ち着いた気持ちが愛なんじゃないか。」と気付く。


登場人物は(多分、彼女ができたばかりの)Aさん一人ですが、夕食後、寝るまでの間に徐々に考えを深めていく感じがあり、
これを哲学対話と言っても、あまり違和感はないのではないでしょうか。


このような意味で、私は、一人でも、ある程度時間をかけ、過去の自分の考えを客観的に捉えるような間(マ)を確保できるならば、哲学対話は可能だと思います。
というか、一人であっても、10人であっても、(皆で)自問自答をしつつ、時間をかけて物事を理解していくプロセスは、全て哲学対話だと思います。

勝手な哲学カフェの分類

カフェの雰囲気や参加者・進行役の個性など、色々な要因があると思いますが、最も大きな違いは、進行役が、どれだけ参加者任せにしているかだと思います。
まず、進行役が、参加者の発言をコントロールせず、話が流れるままにするか、それとも参加者の発言を明確化し、秩序だて、発展させようとするか、という進め方の違いがあります。
また、進行役が、自らの意見を抑制し、参加者の主張のやりとりのみにまかせるか、それとも進行役自らが意見をどんどん主張し、対話の内容に関与しようとするか、という違いがあります。
この2つの違いを組み合わせると、次の哲学カフェの4つのタイプを導けます。

①進め方:放任、内容:不関与
のんびりタイプ
②進め方:放任、内容:関与
雑談タイプ
③進め方:支配、内容:不関与
職人タイプ
④進め方:支配、内容:関与
情熱タイプ
タイプごとの参加者の終了後の感想を勝手に想像してみました。


①進め方:放任、内容:不関与
のんびりタイプ
終わってみると、自由きままに話せた満足感はあるけど、このテーマの(とりあえずの)答えって出たのかな?とわからなくなるパターン

②進め方:放任、内容:関与
雑談タイプ
(進行役が自分の意見をどんどん言うほど深く関与しているのに、進め方を仕切らないというのは、哲学カフェとして失格で、単なる雑談のような気がするので省略)

③進め方:支配、内容:不関与
職人タイプ
終わってみると、自分の意見をしっかり言うことができた満足感があり、テーマの(とりあえずの)答えに辿り着くこともできたけど、とっても疲れたと感じるパターン

④進め方:支配、内容:関与
情熱タイプ
終わってみると、進行役の意に沿うかたちで(とりあえずの)答えは出たけど、自分の意見が反映されたのかな、とわからなくなるパターン

また、この4つのタイプ(雑談タイプを除いた3つのタイプ)は、「理由がなくても人を殺してもいい」というような、突拍子もない意見が出た時の対応でも分かれそうです。(私は遭遇したことはありません。想像です。)


①のんびりタイプ:皆が無言になる。または、参加者の誰かが反論し、バトルになる。

③職人タイプ:進行役がこの意見に反論がないか、(強めに)促す。または、その意見は掘り下げずに話を進行する。

④情熱タイプ:進行役が熱く反論し、バトルになる。

どうでしょうか。こんな区分をしてみたからって、何の意味もないですが、独自研究ということで許してください。
なお、私は、職人タイプが一番いいと思っている訳ではないです。
極端でなければ、どのタイプもそれぞれいいところがあると思います。
職人タイプがよさげに見えるのは極端でないからですね。雑談タイプも極端でなければいいと思います。

どこまでが哲学対話か

どこでも哲学対話はできると思います。ただ、主にどこで行われているのかといえば、哲学カフェ以外だと、学校、企業、医療現場でしょうか。
特に、学校教育については、「子どもの(ための)哲学」というものがあり、授業の中で哲学対話をする取り組みもされているようです。
企業研修で、直接、哲学対話というかたちで行われている例は少ないようですが、哲学対話と深く重なる、クリティカル・シンキング、傾聴、コーチングといったものは盛んに行われていますね。
医療現場も同様ですが、特に、認知療法は、哲学対話と重なっている部分が大きいように思います。
哲学対話というものを最大限に広く捉え、対話の進め方に意識的になること、とするならば、いわゆる哲学的な話題でなくても、哲学対話になりえると思います。
会社で上司と部下が仕事の話をしていても、病院と医者と患者が病気の話をしていても、その対話の進め方に意識的になるなら、哲学対話だということです。
そう考えるなら、クリティカル・シンキング、傾聴、コーチング、認知療法といったものは、哲学対話の進め方の具体的テクニックのひとつとも言えるでしょう。
だから、私は、「哲学対話」というものを、いわゆる「哲学」に限定せず、「対話アプローチ」と言い換えたほうがいいと思います。
会社での部下の指導についての「対話アプローチ」としてコーチングがあり、精神疾患の患者への「対話アプローチ」として認知療法があるというように。
ただ、いわゆる「哲学」について「対話アプローチ」をすることには、特別な意味があるとも思います。
なぜなら、いわゆる「哲学」的な話題は人畜無害だからです。
人はどうしても利害関係があると説得したくなったり、話から逃げたくなったりします。上司が部下に仕事を指示する際には、いくら対話を意識しても、それ以上に、仕事を受けさせるという結果を意識して話さざるを得ないでしょう。
そういう余計なことを考えず、対話のプロセスに意識を集中するのに、いわゆる「哲学」的な話題はとても適しています。

哲学対話での結論

大人が多い哲学カフェではありそうにないですが、学校での哲学対話で「いじめをしてもオッケー」という結論になることは実際にありそうです。
この問題については、さすがにそれは自由の域をはみだしているという意見もありそうだし、参加者が皆で自由に考えて導いた結論なのだからそれでいい、という見方もできそうですね。
ただし、私は、そのいずれの意見でもありません。

まず、前者のような意見に対してですが、何にせよ、哲学対話に枠をはめることは、哲学の力を弱め、その対話を哲学ではないものに変質させてしまうと思います。
「いじめはいけない」ということを本当に哲学的に考えるなら、そのこと自体を疑わなければならないでしょう。たとえ、「いじめはいけない」という地点に帰ってこれなくても、です。
哲学対話と名乗るならば、このリスクは受け入れるしかありません。
これを受け入れられないなら、厳しく言えば、哲学という言葉を安易に使いすぎていると思います。


次に後者のような意見についてですが、私は、哲学対話を経た結論だからといって、それを結論として受け入れることも反対です。
まず、哲学対話には、そこに参加メンバーの制約があります。もしかしたら、いじめられっ子は参加していないかもしれません。
また、その哲学対話は、理想的に安心して話せる場になっていなかったかもしれません。いじめっ子が怖くて、発言しなかった人がいるかもしれません。そのような対話の場の制約もあります。
他にも制約は色々あると思いますが、私が最も重視する制約は時間的制約です。
哲学カフェでも、集中して考えられるのは、せいぜい2、3時間です。
その間、真剣に考え、もう別のアイディアが思い浮かばず、この結論でよい、と思ったとしても、後で考えたら別の考えがわいてきた、ということはよくあることです。
いくら理想的なメンバーで、理想的な対話の場がつくられたとしても、どこかで対話は終えなければなりません。
この時間的制約は、どんな哲学対話でも絶対に逃れることができません。
だから、哲学対話で導かれた結論というのは、せいぜい「とりあえずの結論」なのです。
「いじめをしてもオッケー」という結論だって、参加者や、時間など、色々な制約があるなかでの「とりあえずの結論」としてなら、それでいいのではないでしょうか。


これが私の答えです。
だから、哲学対話で重要なのは、哲学対話の「とりあえずの結論」には何かを正当化する力がないということを、参加メンバーがきちんと知っておくということだと思います。
そして、このことを参加メンバーが理解するまでは、哲学対話の結論が悪いものになるのではなく、哲学対話というもの自体が悪いものになってしまうのかもしれません。

哲学には、どこまでも続きがあり、「とりあえずの結論」にしかたどりつかない、ということを知ること自体に、哲学対話の意味があるのだと思います。
そして、「とりあえずの結論」には、直接的に何かを正当化するような力はないけれど、それを見つける過程には、すっきりしたり、ワクワクしたり、感動したり、と、なんだかいいことが潜んでいることを知ることができるという哲学対話の意味もあると思います。

哲学対話と偉い哲学者の哲学の関係

答えは、半分はイエスだと思います。
高名な哲学者の哲学書を読み、受け身でそこから何かを学ぼうとするだけでは、哲学を勉強したことにはなりません。哲学史を勉強したことにはなるのでしょうが。
それより、哲学カフェで、自分の頭で考え、哲学をするほうが哲学の勉強になるでしょう。


しかし一方で、哲学書は、過去の哲学者のメッセージです。
それも、(一人の哲学者はそれほど幅広いことを考えられないので)一冊の哲学書が、一人の哲学者の人生を丸ごと賭けたメッセージになっていることもあります。
そのメッセージを受け止め、自らも哲学者に語り返すことができたなら、とても素晴らしい哲学対話になるでしょう。
それが、本当に哲学を勉強するということだと思います。
それに比べ、哲学カフェは、素人がふと思いついたアイディアをやりとりすることになるので、一言一言のメッセージとしては、哲学書よりも得るものが少なくなりがちだと思います。
だから、半分はノーです。


(ただ、更に言うと、哲学カフェには、大人数というスケールメリットがあり、また、現場の生身の人間の声という特別さもあるので、一概に哲学書より劣っているとも言えないのですが・・・)

二通りの答え方で「そんなことはない」と言えそうです。
まず、哲学とはとても幅広い分野の学問なので、「対話」とは別の分野を対象に研究することもある、という答えがありますね。
科学においても、物理学者は、水溶液の濃度の法則や、サル山のボスの行動の法則などは気にせず、物理法則について研究するのと同じです。
物理学者に、なぜサル山のボスについて考慮しないの、と言われたら、研究の対象外だから、と返されるでしょう。
(または、サル山のボスがいかに物理法則に従って行動しているかを説明してくれるでしょう。)


もう一つ、対話が成立する手前について研究した哲学者もいる、という答えもできると思います。
哲学対話が成立するためには、哲学カフェがあり、出席者がいて、目の前にはコーヒーが置いてあって、出席者の間で意思疎通ができて、開始から終了まで2時間の時間経過がある、というようなことが成立していなくてはなりません。
こういう、哲学対話が成立する手前にあることについて考え抜いた哲学者もいます。


そういう哲学者にとっては、対話を通じて哲学ができる、という考えは素朴すぎるのでしょう。
(これには反論があるのですが、それは、もはや哲学対話の案内ではなく、私の哲学の紹介になるので、やめておきます。)

哲学カフェなんて、単なる茶飲み話で、全然浅くて、こんなのをホントの哲学と思われちゃ困る!そう言いたくなる気持ちも理解できる気がします・・・
この点については、色々なことをいう人がいると思いますが、私は、率直に言って、哲学カフェで話された内容自体が、有名な哲学書よりも、真実に近づいているとは思いません。


哲学書は、難しい専門用語を使うことにより、言葉を省略できています。
読者が知っていることを前提として、例えば「カントの義務論」という言葉を用いれば、その一言だけで、カントが何を言ったかとか、それに対する有名な反論として何があるか、とか、そういうことをひっくるめて読者に伝えることができます。
これは、数学の授業で、最初の1回だけピタゴラスの定理を証明し、その後は、証明抜きで使うようなものです。
ピタゴラスの定理を使わずに、毎回、最初から証明していたら、授業が進まないですよね。
それと同じように、哲学書においては、「カントの義務論」という専門用語を使うことで、読者がそこまでは知っているということを前提に、その先に、考えを発展させることができます。
だから、難しい専門用語をきちんと使っている哲学書は、これまでの哲学の蓄積をうまく使うことで、素人の哲学カフェよりも、効率よく、思考を先に進めることができていると思います。

一方で、難しい専門用語は、いわば思考のバイパスと言ってもよく、両刃の剣です。
車でバイパスを通ると、確かにスピードを出して、簡単に遠くに行くことができます。
だけど、旧道をゆっくり走れば気付くだろう町並みを見落としてしまうことになります。
それと同じように、あまり知らないくせに、難しい専門用語を使い、わかったような気になると、大事なことを見落としてしまいます。
私も正直、カントが書いた本なんて読んでないし、「カントの義務論」について、ぼんやりとしか知りません。
そんな私が、深く知りもしないで、これって「カントの義務論」的には○○だよね、なんていうふうに問題を片付けてしまったら、カントが考え、格闘し、そこに見出した哲学的景色に気付かないまま素通りしてしまうことになります。
「カントの義務論」という用語を使い、何かを省略することが許されるのは、カントが考えた地点に立ち止まり、同じように格闘し、そこにカントが見ただろう哲学的景色を見出してからなのだと思います。


だとするなら、難しい専門用語を使い、何も景色を見ずに、スピードを出して、思考のバイパスを通り抜けるより、哲学カフェのような場で自分の言葉で語り、自分なりのペースで周囲の景色を楽しんだほうが、いいドライブになるのではないでしょうか。


得意の4分割でこのように整理することもできます。


①専門用語:なし、自分なりの思考:なし 
(単なる雑談)
②専門用語:あり、自分なりの思考:なし 
(しったかぶり)
③専門用語:なし、自分なりの思考:あり 
(ちゃんとした哲学カフェ)
④専門用語:あり、自分なりの思考:あり 
(ちゃんとした哲学書)


哲学という軸で捉えるなら、①が最悪で、④が一番いいのは確かですが、②と③なら、比べるまでもなく③の方がいいです。
というか、②と③の違いに比べたら、③と④の違いなんて、ないも同然と言っていいと思います。
だって、①と②は、まわりを見ずにドライブしてるようなものだけど、③は旧道で近所をのんびり、④はバイパスで遠くに行ってから、という違いはあれど、それぞれのやり方で景色を楽しんでドライブしてるんですから。
だから、哲学カフェは最高の哲学ではないかもしれないけど、結構いいんですよ。(と売り込み)

これまでの有名な哲学者たちの歴史をつなぎ合わせるなら、哲学というのは、その時代の一流の知性を持った人の人生を賭けた取り組みです。
そして、その人生のなかでも一番脂が乗った時期の取り組みだけが成果として後世にまで残るということもあわせて考えるなら、ある種、選ばれた人が選ばれた時にだけ参加できる営みとも言えます。
だから、哲学というのは、容易に一般人が近寄れるものではなく、まるで、人を寄せ付けない鋭利なナイフのようです。
だから、そのような凶器を扱う哲学者は、剣士のような孤高の存在である、とも言えますね。
それならば、井戸端会議のように軽い気持ちで参加できる哲学カフェなんて、一見、同じような名前で似たことをしているように見えても、本当の哲学とはぜんぜん違うと思うのは当たり前でしょう。


私は、これと似た関係にあるものを知っています。プロ野球と草野球です。
プロ野球とは、最高の身体能力を持つ選ばれた人だけが、人生で最高の能力を発揮できる限られた期間だけ参加することが許され、そこで、最高に高め、鍛えぬかれた技を披露することで成立するものです。
一方、草野球は、野球という競技のルールは同じでも、誰でも参加でき、誰に見せるでもなく、単に自分や周囲の友人の楽しみにだけ行うものです。
だから、プロ野球には緊迫感があり、草野球は日曜の午前中のようなのんびり感に包まれる、というように、両者に漂う雰囲気は正反対とも言えます。
(ぬるいプロ野球の試合や、絶対負けられない草野球の試合もありそうですが。)


一方で、プロ野球と草野球は密接につながってもいます。
例えば、草野球をやり、野球に興味を持つことで、プロ野球ファンになるということを考えれば、草野球選手こそがプロ野球を支えています。
また、プロ野球選手も、最初は(リトルリーグのような)草野球選手であった、というつながりもあります。
そして、プロ野球選手になっても、草野球選手のように野球自体を楽しんでいるからこそ、上達し、高いレベルの技を披露することができるのでしょう。
逆に、プロ野球選手が高いレベルの技を見せ、野球の魅力を広めるからこそ、野球に興味を持ち、草野球を始める人が増えていくとも言えます。


このように考えると、プロ野球と草野球とは、正反対のように見える一方で、密接につながり、お互いがお互いの成立の基盤となり、支えあっているという側面があります。
思うに、プロ野球と草野球の関係は、単に対立し合ったり、並立したり、というような静的な関係にはなく、対立しつつも、並立し、また、お互いがお互いの基盤となり、支え合うというように、動的な関係にあるのだと思います。


有名な哲学者の哲学と、哲学カフェの哲学との関係もこれと同じです。
厳しい哲学者の営みと、ゆるい哲学カフェの哲学は、相容れない雰囲気を漂わせつつも、密接につながっています。
哲学カフェで、哲学特有の思考の流れを学ぶことで、哲学書を理解し、有名な哲学者のように考えるという哲学の入り口に立つことができるのです。
また、有名な哲学者が、人生を哲学に賭けることができたのは、きっと、私たちが哲学カフェで味わうような、あの哲学の醍醐味を忘れられなかったからなのでしょう。


こんなふうに考えると、いわゆる哲学と哲学カフェの関係は、一筋縄ではいかないと思うのです。

僕の考え

「哲学」には、一握りの天才だけが、人生の全てを賭けて挑むことが許されるエベレストの山頂に咲く花のような厳しい側面が確かにあると思います。
しかし、一方で、どんな難解な哲学書であっても、その本は誰かのために書かれているという意味で、「哲学」には優しさが隠されています。自分が一生をかけて考えたことを内緒にしないで丁寧に書き残すなんて、人生をかけて読者のことを思いやったとしか言えないですからね。
哲学ってツンデレですね。
一方、「対話」は、逆にデレツンです。対話は一見、相手を気にかけて語りかけ、そして相手の言葉を傾聴するという優しい行為です。しかし、相手の話にうなずいてばかりでは話が進まないので、たとえ相手とは違う意見であっても、その意見は主張しなければならないという厳しい側面も秘めています。
そのような、厳しさの中に優しさを秘めた「哲学」と、優しさのなかに厳しさを秘めた「対話」という、ちょうど正反対の二つの言葉を組み合わせたところに、「哲学対話」の面白さがあるような気がします。
「哲学」の厳しい父性のなかに、優しい母性が潜んでおり、「対話」の優しい母性のなかに、厳しい父性が隠れている、そんな関係性を「哲学対話」という言葉はうまく表していると思います。
この厳しさと優しさの間の動的な揺れ動きにこそ、哲学対話の魅力があるのではないでしょうか。

哲学カフェとの相性

それでいいのだと思います。
何も根拠はないのですが、私の周囲の大人のうち、5割くらいの人は多分、哲学は要らないように見えます。
そして、4割くらいの人にとっては、哲学はあってもいいけど、なくてもよい、というようなもので、残りの1割くらいの人にとってだけ、哲学があったほうがいいように思えます。更に、哲学なしに生きていけないという人は、100人に一人くらいではないでしょうか。(ただし、子どもの場合は、もう少し必要な割合が多そうな気もします・・・)
これは、哲学を求める人が偉くて、哲学はわからない人は劣っているというような話ではなく、納豆が好きとか、ロックが好き、というような趣味の違いや、カニを食べるとアレルギーになる、というような体質の違いとほとんど同じようなものではないかと思います。
アフリカのマサイ族が納豆を食べたことがなく、納豆を食べたいと思わなくても別に劣っている訳ではないのと同じように、哲学に触れたことがなく、哲学に興味が持てなくても、別にそれでいいのだと思います。
ただし、私は哲学や納豆が好きで必要なので、本当には、哲学を必要とせず、求めない人の気持ちがわかりません。だから、行間に哲学を押し付けるような感じがにじみ出てしまっているかもしれません。