ネオ・ソクラティック・ダイアローグに参加してきました

昨日、一昨日で(つまり2023年9月16日、17日で)、ネオ・ソクラティック・ダイアローグという哲学対話のイベントに参加してきました。

コロナになってからは哲学カフェ(ヨコハマタイワ)も開催しておらず、他の方の哲学カフェにもほとんど参加してなかったので、久しぶりの哲学対話でした。

ネオ・ソクラティック・ダイアローグとは、ソクラティック・ダイアローグと呼ばれたり、NSDやSDなどと略されたりする、ドイツ発祥の哲学対話の手法のひとつです。その特徴は、かける時間の長さにあり、本場では3日から5日、朝から晩までやるようですが、今回は2日間、朝から夕方まででした。

それでもハードルが高くて、哲学プラクティス連絡会という哲学対話主催者向けのイベントでそういう手法があると知ってから5年以上経ち、ようやく参加できたなあ、と感慨深いです。あと、やっぱり疲れました。

そこで、ネオ・ソクラティック・ダイアローグ(以下、NSD)とは具体的にどういうものか、というのは、本などを読んでいただくこととし、ここでは、僕のが思ったことを書き残しておきます。

NSDは、ステージ、段階が決められていて、ステージごとに参加者全員の合意をとって次へ進んで行きます。そして最終的には問いに対する答えを参加者全員で合意するのを目指していくことになります。

だから、きっと、一般的にNSDを特徴づけるのは「合意」で、僕を含めた参加者は合意形成を目指して進んでいきました。

だけど、こうしてNSDという山を登り、そして降りてきてみると、確かに「合意」は重要だけど、本当に重要なのは、「切り捨てる」ことだったのではないのかなあ、と感じました。そのことについて書きたいと思います。(進行役の方はNSDを登山にたとえていて、僕もそのとおりだと同意します。)

NSDを知らない方にはわからない書き方をしてしまうと、まず切り捨てられるのは、採用された具体例以外の、他の参加者が提出した具体例です。次のステージでは、採用された具体例に対する他の参加者の推測や憶測が切り捨てられていきます。

こうして、単なる具体例の記述だけが残ることになりますが、そこから更に、具体例のうちの重要でない部分が切り捨てられます。そして、最後の具体例の重要な部分から、具体性が切り捨てられます。このようなすべてのステージを経て、NSDを終えたあとには、唯一の具体例に基づく普遍的な記述(とまではいかなくても参加者間で共有できる記述)が答えとして残ることになります。

これが「切り捨てる」ことに着目したNSDの流れの描写です。

進行役の方の説明によれば、NSDは砂時計の形のように、広がっていたものがキュッと狭まって、そしてまた広がっていくという形をしているそうです。体験してみると実際そのようなかたちをしていて、ひたすら「切り捨てる」ことにより、狭まり、広がっていくことが面白いなあ、と思いました。

「切り捨てる」ことにより砂時計の上半分のように、徐々に狭まっていくのは、まあ当然とも言えます。このプロセスは、他の参加者が提出した具体例や他の参加者の推測や憶測を切り捨て、唯一の具体例の記述にまで到達する場面に相当します。

興味深いのは、唯一の具体例の記述にまで絞られたものが、更に「切り捨てる」ことにより、砂時計の下半分のように、逆に広がっていくところにあります。それは簡単に言えば、具体的な記述の普遍化ということになるでしょう。だけど、実際にNSDに参加することで、そのプロセスを、言葉が持つ力の解放というか、言葉が持つ力の横溢というか、なんというか、もっと活き活きした言葉で表現したくなるようなものとして感じることができたのです。もう少し細かく描写すると、唯一の具体例の記述に対する制約を「切り捨てる」ことにより、具体例の記述にはめられていた箍(たが)が解き放たれ、その具体例が持っている本来の力が解放されていく、という感じでしょうか。そのような広がりを体感できたのが僕にとってのNSDの最大の収穫でした。

と書いても、NSDを知らない方にはなんのことかわからないと思います。僕はそれでいいと思っています。なぜなら、この文章の目的は、NSDを知っている方に僕の感想を伝えることであり、そして、NSDを知らない方にはなんだかわからないけど参加したい、という気持ちになってもらうことなので。

なんだかわからないけど面白そうと思った方は、是非参加してみてください。

ちなみに、NSDの欠点は、時間がかかることと、きっと、どうしても当初の予定より遅れがちになるというところにあると思います。実は、僕が参加したイベントでも、最後のステージは時間切れとなってしまい、きっと一番盛り上がるだろうところが味わえなかったのは残念でした。今回のイベントが遅れがちになってしまったのは、僕が「切り捨てる」プロセスにこだわりすぎてしまったのも一因だと思います。すみません。

だけど、その代わりに僕は(願わくば僕以外の参加者も)「切り捨てる」ことにこだわることで、「切り捨てる」ことの痛みと面白さを味わうことができたような気がします。

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