ヨコハマタイワ25の感想

日曜日はヨコハマタイワ25でした。
3名の方に、丸一日お付き合いいただきました。お疲れ様でした。
1名の方は体調不良でキャンセルでした。コロナもあるので、きちんとキャンセルいただけるのは有り難いです。4名だったら僕は司会に徹しようと思ったけど、3名だったので僕もちゃっかり参加しちゃいました。

少人数で丸一日対話するという、かなり新しいことに挑戦したので、終了後はまっすぐ帰宅し、ヘトヘトで家でぼーっとしてました。3日経った今もちょっと疲れが残ってる気がします。
まず、疲れた要因は、前日飲み過ぎて、ちょっと二日酔いだったというのがあります。やっぱり体調管理しないといけないですね。
それに、何と言っても、丸一日っていうのは疲れます。特に新しい試みだったので、どうやったらいいか、力の入れ具合もわからず試行錯誤だったのも疲れた要因でした。
あと、この試みは、いつかやってみたいと思っていたものだったので、気合を入れすぎてしまった、ということもあります。
そんないくつかの要因が絡まってヘトヘトでした。

今回挑戦したのは、参加者全員にテーマを出してもらって、全部のテーマを同時並行で話し合って、全部の問題を一気に解決しちゃおう、というものです。まあ、完全な解決なんてできるはずがないのだけど、それに近いことができたらいいな、と思ってやってみました。
今後の参考にするため、当日のおおまかな流れを記録しておきます。

10:30~10:45 最初の説明、自己紹介、アイスブレイク(朝ごはんは何を食べたか)
10:45~12:30 1~3人目までの人のテーマの説明、対話(1人40分ずつくらい 1人目は僕だったので短め)
12:30~13:30 昼休み
13:30~14:10 4人目の人のテーマの説明、対話
14:10~15:00 4人について、15分ずつくらい、本人を除くかたちで対話
15:00~15:10 休憩
15:10~15:50 最後の対話
15:50~16:00 感想など一言 寄付(ユニセフに6000円を寄付しました。)

僕から出したテーマは「どうして結論を出したくなるのか。」というもので、あとの方は、個人情報もあるので、簡単に僕なりに再解釈した言葉でメモしておくと、
①心身問題(科学でどこまで心を捉えられるか)、②言語(人生の意味)からの自由、③理由(因果)と感情、という感じでした。

話の内容も興味深いものだったので、ちょっと感想を書いてみたいのですが、その前に、それ以外の感想と反省を書いてみます。

まず、気合を入れすぎた、というのが反省です。今回の参加者は、丸一日話そうと思うくらいで、かなり、ご自身でも考えている方で、哲学的な知識もある方だったので、つい嬉しくなって本気モードで話しちゃいました。ただ、僕は主催者ということで特権的な立場にいるので、ちょっと好き勝手やりすぎちゃったかな、という反省があります。かなり特殊な持論を述べてしまったなあ、という感じ。
特に、僕は反自然科学で、時間論が大好きなので、我田引水な議論を展開してヒートアップしちゃったかも。
進行役は、もう少し進行役に徹したほうが楽しくなりそうな気がします。

細かいことだけど、会場の大倉山記念館は、ちょっと音が響きすぎだったような気がします。かっこいい建物なんですけどね、次の会場はどうしようかな。

あと、やっぱり一日は長すぎかな、と感じました。15時に終わればちょうどよかったです。
それと、Aさんが出したテーマについて、Aさん本人を除くかたちで対話する時間帯を設ける、というのはとても面白かったのだけど、流れが分断してしまったというのも反省です。
うまくやれば、丸一日ではなく、午後だけでもいけそうな気がします。
見直した場合の流れをメモしておくとこんな感じかな。

13:00~13:15 開場準備
13:15~13:30 最初の説明、自己紹介、アイスブレイク
13:30~14:15 1人目のテーマの説明、対話

(45分の時間配分) ※2人目以降も同じ
0~15分 テーマ説明
15~30分 本人を除いて対話
30~45分 本人含めて対話

14:15~15:00 2人目のテーマの説明、対話
15:00~15:10 休憩
15:10~15:55 3人目のテーマの説明、対話
15:55~16:45 どれかテーマをひとつ選んで延長戦の対話(提題者の問題意識から離れて)
16:45~16:55 感想など一言
16:55~17:00 片付け

また、参加者の方から言われたのだけど、事前に目安の時間を示したほうがいいかも。また、テーマにより、時間がかかるものとかからないものがあるのでは、という話もありました。これは次回、微修正してみたいです。
あと、Aさんが出したテーマだからといって、Aさんの問題意識に縛られる必要はないという話も大事だと思いました。例えば、Aさんが出したテーマが「自由」だったからといって、そこからの話しはAさんの問題意識に縛られる必要はなくて、BさんやCさんにとっての自由の問題として話してもいい、ということになります。
だけど、これは実は微妙な問題で、そうすると、参加者全員が自分の問題を話しきれる場にしたい、という当初のコンセプトからずれてしまい、普通の哲学カフェになってしまいます。ただ一方で、Aさんにとっての自由から、Bさんにとっての自由への読み替え、というような話のズレというか、話の展開がないと、どうも窮屈になって、つまらなくなってしまうというのもわかります。
これはきっと、僕が今回、このような試みをした動機にも関わっていて、僕は半分無意識に「聞くことを重視するいつもの哲学カフェとは別に、話すことを重視する哲学カフェをやってみたい。」と思っていたような気がします。つまりこれは「話す哲学カフェ」特有の問題ということになります。
ただ、話すだけなら、そんなに時間が要らないような気もするので、次は、上で書いたように、45分ですべて語りきるようにして、更にそのなかで、本人が話せない時間帯をつくることで変化を出してようかな、と思います。
なんて考えてたら、次のやつをやってみたくなってきたぞ!ワクワク

ここからは、今回の対話の内容についての収穫をメモしておきます。
僕からは「どうして結論を出したくなるのか。」というテーマを出したのですが、これは、哲学カフェでも、家族での雑談でも、そして人生についても結論を出してしまいたくなる、という僕の性向についての問題意識から出したものです。
だけど、話してみると、僕は結論を出したくなりつつも、結論を出すことに違和感というか、後ろめたさのようなものを持っていたことに気付かされました。僕は、心のどこかで、結論なんて、どこか嘘くさいと思っているのです。結論を出す過程で、本当に大切なものが削ぎ落とされてしまうという感じと言えばいいのでしょうか。話しながら、そのことに気づけたのが収穫でした。
ここからは帰ってから考えたことです。
では、どうして、それでも僕は結論を出したくなるのかといえば、そうすることで、哲学カフェや、家族での雑談や、人生が有意義なものになると考えているからなのでしょう。僕は、哲学カフェや家族での雑談や人生には確かに存在意義があると確認したくて、僕はかっこいい結論を出したいと思っているのです。
だけど、そんなふうにしては、存在意義を確認することなどできないような気がします。なぜなら、僕がやろうとしていることは、結論として発せられた言葉により、つまり「言葉」により存在意義を捉え切ろうとするような作業であり、もし、言葉では捉えられない何かがあるとするならば、そこには本質的に無理があるからです。
そのことに気づけたのは収穫で、僕は、哲学カフェでも人生でも、ガシガシ結論を求めるのではなく、もっと、肩の力を抜いてみたほうがいいのかも、と思いました。

その他の参加者が出したテーマについて考えたこともちょっとメモしておきます。

①心身問題の話
これまで僕は、正直、心身問題についての身体一元論的な考え方(=物理主義?)の魅力がわかっていませんでした。だけど、話してみて、ちょっと魅力的だなと思いました。
身体一元論によれば、つまり、すべては脳や身体の働きで心の動きは説明できるから、つまり、僕たちは、タンパク質でできたロボットに過ぎないということになります。僕の行動は物理的な因果法則に基づき完全に予測でき、僕には自由意志などないということになります。
それはつまらないことだと考えていたけれど、ある種の安らぎもあります。僕たちの人生の選択の場においては、常に自然科学の法則が寄り添ってくれているという安心感です。大いなる自然に守られている安心感とでも言えばいいのでしょうか。
更に、その安心感とは、自然科学を信じ、身体一元論(物理主義)の立場を選択するという自らの選択によりもたらされているのです。
それが、なんだかいいなあ、と思いました。
(僕なりの参考図書『転校生とブラック・ジャック』(永井均))

②言語(人生の意味)からの自由の話
この話は、今、考え直してみると、人間ではなく動物になりたい、という話なのではないか、と思いつきました。人間である限り、言語から逃れられず、人生の意味のようなことを考えることからも逃れられない。だから言語を習得する以前の動物に戻りたい。という話です。
きっと、動物だって、お腹が空いたり、天敵に狙われたり、色々と苦しみはあるけれど、人間にはそれとは別に、人生の意味を知ることができないというような、別の種類の苦しみがあります。そのような苦しみから逃れ、動物のように自由になりたいというのが、この自由の話なのではないでしょうか。
(僕なりの参考図書『キリギリスの哲学』(バーナード・スーツ))

③理由(因果)と感情の話
僕は、ここでの感情の強さにより、問題の見え方が変わってくるような気がしています。ペンキが「臭い」とハンバーグが「おいしい」では、因果律からの離れ方が違うように思うし、ハンバーグが「好き」と、あの娘が「好き」では、更に違いがあるように思えます。
(ペンキが臭いのは刺激臭があると人体に危険があるからだ、とか、ハンバーグが好きなのは人間にとってタンパク質は必須の栄養だからだ、というような因果律的な説明ができそうなので。)
ただし、同様に「あの娘が好き」も繁殖のために必要な感情だ、というような因果律的な説明はできそうです。この話は、「遺伝子の舟」的な表現を用いて、当日もありました。
ですが、遺伝子は、心(クオリア)や感情を経由しなくても、直接的にセックスという行動さえコントロールすれば繁殖は可能だし、実際、少なくとも下等な動物は「好き」という感情抜きで繁殖していることを考えるならば、好きという感情は、繁殖のために必須のものとは言えないような気がします。
(僕なりの参考図書『有限性の後で』(カンタン・メイヤスー)※当日は名前が出てこなかったです。※僕は読むのを途中で挫折してます)

①と②の話を③の話とつなげると、「好き」というような感情は、身体一元論では扱いづらいし、きっと動物は充分に持っていない、極めて人間的なものだということになります。
これまでの話を組み合わせると、「身体一元論的な自然科学法則=因果律=動物」という世界観Aと、「心=人間の苦しみ=感情」という世界観Bという二つの世界観が、ぶつかり合っている、ということになります。
僕は、当日発言したとおり、この問題は時間的に捉えることで調停できると考えていて、世界観Aを過去に結びつけ、そして世界観Bを未来に結びつけることで、二つの世界観は両立できるのではないか、と考えています。だけど、まあ、そう考えることには根拠なんてなくて、いわば宗教のようなもので、そう考えることを押し付けることなどできないのですが。

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