ヨコハマタイワ13がおわりました

(備忘録的にちょっと長めです)

三連休の初日、雨の中、勝手に二部構成の後編のつもりで開催しました。
過去と未来を対比し、前回は過去だったので、今回は未来ということで「もし全ての願いが叶ったらどうなるのか。」というテーマ設定です。
なんでこれが未来なんだ?と思うかもしれませんが、僕がそう思ったからそれでいいのです!

参加者は僕以外に6名。ちょっと少ないかな、と思ったけど、振り返りでは、ちょうどいい人数と言ってもらえました。このくらいだと、みんなきちんと発言できるし、僕自身も心置きなく発言できるし。けど、思い入れがあるテーマだからか話しすぎたかも。

そもそも「願いが叶う」、それも「全ての」願いが叶う、ということのイメージが自分自身できなかったので、願いが叶うとはどういうことか、というあたりから話し始めました。
最初は、自己中心的な「欲望」と「願い」では違うのでは、願いは尽きないので「全て」の願いを叶えることはできないのでは、というような話でしたね。
あと、タイムマシンのようなSF的な願いまで含めるべきか、というような視点も重要な気がしました。今回は僕の好みで荒唐無稽系まで含めましたが、生活密着系に限定して話しても面白そう。

個人的によかったのが、参加者の方の提案で、全員で3つずつ具体的な「願い」の例をあげてみたところ。ホワイトボードに並べると、願いの多様さが壮観でしたね。どうも僕には抽象的に考えすぎる癖があるようだけど、列挙されたもの特有の力ってあるんだなあ、と感心。

けど、列挙されたものを抽象化したくなるのも性のようで、お金や未来の科学技術で叶えられうるものと、そうではないものを切り分けてみました。
すると、ローンの返済とか、健康とか、空を飛ぶとか、テラフォーミングする、とかといったものは前者に区分けされ、後者としては、差別をなくすとか、過去に戻るといったものが残りました。
そして、後者のグループの願いは、いずれも、どのように実現するかよくわからない。
例えば「差別をなくす」については、色々な困難があります。そもそも差別はなくさなくていいと思っている他者に押し付けていいのか、昔はセクハラなんて言葉はなかったように差別は発見されるものではないか、というように。
「過去に戻る」についても同様で、過去を変えることで何をしたいのか一言では言えない。過去の失敗だけをなかったことにして今の人生はそのままにしたいのか、全く違う人生を送りたいのか、そこには断言を拒否する何かがあるような気がする。
神様から願いを叶えてくれると言われても、何を叶えたらいいのかわからなかったら、頼みようがないですよね。

最後に、その願いを実現した結果がほしいのか、それともそのプロセスが大事なのか、努力しても結果が手に入らなかったら無駄なのか、努力せずに結果だけが手に入ったらそれでいいのか、といった話になったところでタイムアップ。
うーん、この話は色々掘り下げどころがあるなあ。

実質、きちんと休みをとらず話し続けて2時間半強。僕個人の哲学的な思索において、とても実りある時間でした。お付き合いしていただきありがとうございました。

僕にとっての大きな収穫は、願いには、僕が当初イメージしていた「願いの雑巾モデル」とは違うかたちがありそうだ、とがわかったことですね。なんか救われました。
(ちなみに雑巾モデルとは、願いとは雑巾を絞るように僕の中から湧き出すもので、願うたびに叶っていけば、どこかで願いは尽きて、カラカラになって願いも生きがいもない自分自身が残るのではないか、という考えです。)

終了後、希望者数名で1時間半くらい雑談して帰りました。隣にコンビニがあるのは便利だなあ。

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