日曜日のヨコハマタイワ12は、10名の方に参加いただきました。
「覚えていることと忘れてしまったことの違いって何?」という僕の趣味丸出しなテーマにも関わらず、感謝です。
聞いてみると、僕と同じように、奥さんと子供が里帰りして暇なお父さんが何人かいたりして、お盆という時期がよかったのかも。
男女比は3:7で女性が多くて、年齢的には20代から50代まで、という感じ。女性のほうが多いのはあまりないですね。
話の展開としては、僕は当初、覚えていることと忘れたこととは全く違うという二項対立的なイメージでいたのですが、
そうではなくて、忘れたはずのことを思い出したりもするし、記憶違いのようなこともあるので、もっと緩やかな違いなのではないか、という疑問が示されました。
そこから、覚えていることはキャッシュメモリのように使用頻度が高い、他の出来事との関係性やネットワークが深いことは覚えていやすい、というAI的な話から、
その出来事に感情が乗っているかどうかも大きい、けど、外国語の英単語の知識のように感情が乗らない道具的記憶もある、というような話に進んでいきました。
僕としては、「10年前に海に家族で行った。」という出来事についても、事実としての道具的記憶としての側面と、「楽しかった」「つまらなかった」といった感情の乗った記憶としての側面があるということが気づきでした。
また、家族全員の記憶が書き換えられて、本当は海になんて行かなかったのに、偽物の記憶が植えつけられてしまったらどうだろう、なんて哲学らしい話にも展開しました。
展開したというより、僕の興味に沿って無理やり展開させたというのに近いのですが・・・
ふと、この話になる前に出てきていた、「家族で談笑しているうちに忘れたはずの海に行ったという思い出がよみがえってなつかしくなる。」というように、忘れることも楽しいよね、という話を思いました。もしかしたら、楽しく談笑できたなら、それが本物の記憶かどうかなんて、どっちでもいいのかもなあ、なんて。
この場は、全体として、「過去は記憶されていない出来事で満ちていて、そのなかにほんのわずかだけ、記憶違いかもしれないけど、覚えているとされる出来事がある。」という方向で進んでいたように思います。
僕としては、記憶とか歴史とかといったものは、その人や社会の人格が現れた、ひとつの表現なのだなあ、としみじみ感じました。
かっこよく言えば「過去は、その人の形をしている。」というのかな。
だけど、最後のほうで、「それでも正しい記憶、正しい知識を目指さないと、人を欺いて儲けようとしたりする人たちにうまくやられてしまう。」という極めて倫理的な問題提起がされ、確かにそのとおり。今回のテーマは時間という形而上学的で抽象度が高いテーマを設定したつもりだけど、それでも、こんなふうに倫理的、人間的、社会的な視点が入り込んでくるのだなあ、そしてその視点は確かに必要となるのだなあ、と思いました。
こんなふうに、まるで僕のためにあるような楽しい2時間半でしたが、最後に一言ずつ全員から発言してもらって終わりました。
同じ話をしていたはずなのに、みなさん、全く違う受け止め方をしていて、これもまた面白かったです。
終了後は、家族がいなくて独身をエンジョイしたい僕につきあっていただき、三次会まで飲みに行き、二日酔いになりました・・・
毎回はこんなに飲まないから大丈夫ですよ。ほんとに参加は任意だし。
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