2018年8月25日に哲学プラクティス連絡会に行ってきました
哲学カフェや哲学対話といった活動は、広く哲学プラクティスとも言われていて、学会のようなあつまりもあります。
毎年やっていて今年で4回目となる哲学プラクティス連絡会と、今年できた哲学プラクティス学会。
学会のほうは、基本、大学で哲学を専攻した研究者が中心のようで、僕はあんまり関係ないので、連絡会のほうに行ってきました。
立教大学の教室を4、5部屋借りて、教室ごとに色々な発表やワークショップ(出し物)が行われるかたちです。
僕は、
「学校において哲学対話が可能となる条件」
「哲学対話とジャーナリズムの関係」
「哲学ツーリズム」
「ソクラティック・ダイアローグ」
という4つの出し物に参加しました。
あんまり詳細を書くとまずいのかもしれないので、ざっくり書くと
「学校において哲学対話が可能となる条件」
→学校での哲学対話って、教師の権力の「隙間」を作り出すのに役立つよね、という話で、「隙間」という表現が興味深かった。
発表者の方の考えとは別に、隙間ってどんな隙間なんだろ、教師の心持ちの隙間なのかな、時間的・空間的な隙間なのかな、なんて考えた。
「哲学対話とジャーナリズムの関係」
→哲学カフェを取材した記者の方の話も聞けて、双方向的な哲学対話と、一方向的なマスメディアの報道との違いを感じた。
ただ、マスメディアでも当然、組織の内部では双方向的な議論や逡巡や配慮といったものもあるし、報道したあとのフィードバックというものもあるだろう。
そう考えると、メタ的視点に立つと、マスメディアの活動というのも、広くは対話的な文脈に取り込むことができるのかもしれない。
だとするなら、対話における発話者としてのマスメディアの特別さって何なんだろう。
このワークショップに参加するまでは、SNSが発達した今、その特別さは薄れた気がしていたけど、今は、報道を積み重ね、事実に基づき、組織内での議論を経て丁寧に発話されるマスコミの言葉というのは、ある特別さがあることを再確認した。そして、それは何でも許される哲学カフェでの発話とは真逆のもののような気がする。
これってなんなんだろうなあ。
「哲学ツーリズム」
→旅してるときって、当たり前から離れられて、哲学しやすいよね、というコンセプト(ちょっと違う?)で旅と哲学を組み合わせられないかという話。
海外一人旅が好きな僕としてはとってもわかるので興味深く参加。
恋と旅は人を哲学者にするよね、と言いたい。
哲学する状況ってどういうときなのか、色々な話が聞けたのが興味深かった。いつもの道を歩いてるような何もないときに哲学できるという話と、会話のなかで人の話に違和感を感じるといった何かあったときに哲学できるという話の両方が確かにあるのが興味深かった。
哲学が生まれるときと、哲学を育てるときの違いなのかなあ。
「ソクラティック・ダイアローグ」
→いわゆる哲学対話に似てるけど、もっと構造化された手法としてこういうのがあるのは知ってたので、どんなのか知りたくて参加。
発表者の方はドイツまで行って英語で参加してきたそうだ。すごい。
僕がやってる普通の哲学対話と比べると、もっと長い時間(数日!)やって、ちゃんと文章(メモ)に残して、全員が合意するひとつの結論までたどりつく、というものだそうだ。
長丁場だからか途中で対話の進み具合についてのメタ対話を入れたり、参加者のうちの誰かのエピソードを具体例にじっくり掘り下げるなど、色々興味深い。
なにより、長時間一緒に過ごしつつ対話するというのがいい。この方の場合は四泊五日くらい、同じ建物に寝泊まりして、夜は飲みに行ったり、ハイキングに行ったり、とのこと。
そんなのんびりした時間軸の中で対話するなんていいなあ。いつかやってみたいなあ。