ヨコハマタイワ37を開催しました。テーマは「なんで大人は主体的であるべき?」

※この文章は、開催当日(6月15日)に書いたものですが、アップするのをすっかり忘れてました・・・

最初に

今日は、いつもの場所(日本大通り駅の近くの開港記念会館)でヨコハマタイワ37を開催しました。

梅雨で微妙に雨で蒸し暑い中、8名参加いただきました。

うち2名が哲学カフェ自体に初参加とのことでしたが、初参加で大丈夫かな、と心配になるほどの濃密な話になりました。

ですので、この文章も濃密な内容で、かなりの長文になっています。

テーマ出し

テーマは、参加者に出してもらい、その中から決めるかたちでしたが、多数決では同点となり、最後はジャンケンで「なんで大人は主体的であるべき?」に決まりました。ジャンケンにまでもつれるのは珍しい展開だった気がします。

ちなみに、没テーマの中には、「人間はなぜ存在しているのか?」「言葉の力とは何か?」なんていうのもあって、今回は、参加者は、かなり抽象度高めが好みかな、という雰囲気がすでに漂っていました。抽象的な話が避けられがちな哲学カフェもありそうだけど、俺はそういうのも全部受け止めてやるぜ!と気合を入れつつ本題をスタートしました。

身近な生活に近い具体的な話(浅瀬の話)

テーマを出した方の話では、「なんで大人は主体的であるべき?」という問題は、子育ての場面から出てきた問いとのことで、「子どもには主体的な大人になってほしい」という思いが背景にあるようでした。

実際の話の展開としては、ここから抽象的で、ある意味「深い」ところに一気にいったのですが、この文章では、話を再構成して、具体的(浅い)から、抽象的(深い)に深めるように書き残していきたいと思います。(「浅い」・「深い」という言葉を使ってますが、別に深いほうが偉いという訳ではありません。海に喩えるならば、僕の身近な生活は浅瀬で、僕の生活から遠いところに深海がある、という程度のイメージです。)

具体的な実生活に近い話としては、「大人じゃなくて、子どもでも主体的なほうがいいじゃない」「そういう教育方針って最近あるよね」「それでも『出る杭は打たれる』みたいな現状があるよね」といったものがありました。

ここでの「主体的」とは、「積極的」にも近くて、「学校で自分の意見をきちんと言う」というようなニュアンスで捉えられるものだったと思います。

また、大人は、ナチスや会社のような組織に従うのが当たり前で、主体的であることなんか求められてない、という話もありました。主体性を求められるのは、「お前が自分で選んだんだから、自己責任だよな」と責任を押し付けられるような場面。

そんなことになるなら、主体的じゃないほうがよくて、うまく責任を回避したほうがいいのは当然ですよね。

抽象的な話(深海の話)

だけど、それでも本当は主体的であることっていいことのはず、という方向で話が進み、ハイデガーという哲学者に詳しい参加者から、「ハイデガーは、主体性を失った生き方と、それでも主体性を取り戻そうとするような生き方の狭間にある、行きつ戻りつの往復運動にこそ、真の主体性がある、といったことを考えていた。」といった趣旨の話の紹介がありました。(あくまで僕の理解です。)

(実は、僕は、こういうとき、「ハイデガーの考えはわかったけど、その考えを引用したあなたの考えはどうなの。」と聞きたくなるし、哲学カフェの進行役としては聞くべきだと思っています。だけど、今回、この発言をした方は、自分の考えとして、そう述べているように感じたので、あえて聞きませんでした。このあたりは、どっちがよかったのか、今も答えは出てません。)

そして、そこから更に、同じ方から「哲学者が、判断を留保するところにこそ、真の主体性がある」といった話がありました。「人それぞれだよね、で終わってしまう相対主義や、絶対にこれが正しいという絶対主義は、どっちもまずいので、両極端に振れず、その中間に立ち止まることこそが、哲学者に求められる主体性である」という趣旨の話と僕は理解しました。

(どうでもいいけど、僕が好きな哲学者の入不二基義の本に『相対主義の極北』っていうのがあって、それを思い出しました。)

浅瀬と深海をつなぐ

なんで、細かく話の内容を書き残したかというと、今回の話での、生活に結びついた浅瀬から、一気に深海に潜っていった勢いみたいなものを書き残しておきたかったからです。

正直、僕個人として、こういう展開が好きだけど、進行役としては、みんなついてきてるかな、とちょっと心配になりました。実際、あとで聞いたら、溺れそうになった、という感想の参加者の方も何人かいて、やっぱりな、と、進行役として、ちょっと反省しました。

と言っても、抽象的な話をしたこと自体は問題ではなくて、僕の反省点は、浅い層と深い層を繋ぐ話ができなかったところにあります。そして、その穴埋めをして、二つの層をつなぐために、この文章を書いている、という面もあります。

外的な主体性と内的な主体性

僕が進行上、深海のほうの話を打ち切ったこともあって、明らかに、今日の場では、浅瀬の話と深海の話は明らかに断絶していました。

そして、僕は、二つの話の間にある矛盾を感じました。浅い層の「『出る杭は打たれる』になるから、いいことばかりじゃないけど、それでも積極的で主体的なのはいいことだよね」という話と、深い層の「極端な方向に安易にいかないで、立ち止まることこそ主体性だよね」という話が矛盾しているのではないだろうか。

これは、具体的な行動に現れる「外的な主体性」と、心の中での思考における注意深さ・真摯さのような「内的な主体性」との間にある矛盾と言ってもいいと思います。

(参加者のひとりも、同じような矛盾を感じて、哲学者の主体性は、社会においては無力すぎるのでは、といった問題提起をしたのではないかと思います。)

割れた風船を引き継ぐ対話

けれどその矛盾を解消し、浅瀬と深海とを結びつけるような話は、実は、すでに今日の話の中で出ていたとも言えます。

それは、全く別の文脈で出ていた「思考するのって、風船の中をよじ登ろうともがいているような感じがある。けれど、いざ、そこで考えたことを話すと、その思考の風船が弾けて割れてしまう。」という話です。

今日の哲学カフェでは、そこまで話せなかったけれど、これを僕の言葉で言い直すと、「考えることと話すことは切り離されている」となります。(脱線ですが、哲学対話の第一人者と言ってもいい河野哲也という哲学者は『人は語り続けるとき、考えていない』という本も出しています。)

僕は、「哲学カフェ」つまり「哲学対話」という活動をしていますが、対話とは、「(人の話を聞いて)考えること」と「(考えたことを)話すこと」の繰り返しと言ってもいいでしょう。そこでは、実は、「考えること」と「話すこと」は切り離されているから、対話の場では、風船が割れるような「台無し」が生じ続けている、とも言えます。

だけど、重要なのは、それでも、なぜか対話の場は成立している、ということです。語ることで思考が台無しになるはずなのに、なぜか弾け飛んだ思考は対話の場に回収され、場全体の思考として続いていく。

これは、個人レベルでは割れて台無しになった風船が、対話の場という、さらに大きな風船によって取り込まれ、回収される、と言ってもいいと思います。このようにして対話によって風船が別の風船へとつながっていくことと、「外的な主体性」と「内的な主体性」という矛盾が結びつくこととの間には深い関係があるんじゃないかな、と僕は思いました。

では、それがどういう繋がりかを説明しようとすると、話が長くなりすぎちゃうので、ここで話は終わりにします。ですが、哲学対話に、そのような効用があるのは確かだと思います。

「哲学カフェのような場で対話を行うことは、まさに主体的な営みである。そして、こういう活動を僕がしているのは、まさに主体的であることの楽しみを追求したいからなのかもしれない。」

これが今日の、主体的であることをめぐる話の僕なりのまとめです。

食べ過ぎのご報告

ということで、長文になりましたが、皆さん、お疲れ様でした。

僕は、その後、スリランカカレーを一人で食べに行ったら、お腹いっぱいになりすぎて、午後2時間くらい寝ちゃって、晩ごはんも抜いちゃいました。

けど、主体的な判断なので悔いはありません!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です