ヨコハマタイワ41を開催しました。テーマは「生命とは何か」

今回は、テーマを事前に「生命とは何か」と決めて開催しました。ラスボス的なヘビーなテーマをやってみたくなったので。

そのテーマ設定に興味を持っていただいたのかわからないけど、9名参加で満員御礼。事前に過去の参加者にメールで告知したら埋まってしまったので、ブログでは告知してません。すみません。


話としては、生命って「DNAの入れ物」では、という話があり、それに対してT2ファージ(初めて知った!)みたいな、「DNAの入れ物」ではあるけれど、ウイルスよりもさらに単純で、自己完結していないものもあるよね、という話になりました。生物学的には細菌みたいな単細胞生物は生物だけど、ウイルスあたりは生物ではないそうです。自己複製して増殖できるかどうかが、生物かどうかの境目らしい。

けれど、生物学的定義からは一旦離れて、この場で新たに考えてみよう、ということになり、「AIのような機械はどうなんだ」、「人間のような理性的な存在は逆に生物っぽくなくて大自然の本能のような感じのほうが生物っぽい」、「ガイア(地球)は生きているとも言われる」、といった違う切り口からの話が出ました。

ちょっと順番は違ったかもだけど、生命には生きる「目的/意思」のようなものがあるのでは、という話もありましたね。「自らの種を保つ/増やす」といった「目的/意思」。さらには、この「目的/意思」とは、自らと同じようなものにソリッドな(固定化するような)方向性を持つ営みなのではないかといった話も。(優生思想のように人間的でもあるし、強者の自然淘汰という意味で非人間的でもある。)

面白いと思ったのが、人間的な営みとして、自分とは異なる理想的なものを措定して、その理想を保ち/増やすような営みもある、という話。僕の中には、生命とは、自分(みたいなもの)を将来に残そうとするもの、という大前提があったのだけど、確かに人間はそうとも限らないな、と気づきました。どうも、生命と言っても、人間という生命と、それ以外の生命では違いがありそう。

人間ならではの生命の関わりという点では、品種改良、さらには遺伝子操作と、最新技術の話にもなったけど、人工(人の手が加わること)と生命とは相性が悪いという話も。また、人が手を加えることのできない神秘さが生命にはあるのではないか、とも。

最後のほうで、生命には、生命エネルギー(イコール魂?イコール心?)があるのでは、といった話に。やっぱり魂が登場したか、とラスボスのラスボスに出会った気分。

さらには、生を考えるためには、まず「死」を考えるべきでは、とこれまたラスボス感がある話に。

そうなんだよね、ラスボスって実は別なラスボスとつながってるのよね。だからこそラスボス。と、ロールプレイングゲームでラスボスを苦労のうえ倒したと思ったら、第二形態に変化するのを唖然と眺めるような無力感を感じつつ終了。

皆さん、わかっていたこととはいえ、バッドエンディングお疲れ様でした。けど楽しかったと感じてもらえたなら嬉しいです。

一番驚いたのは、そこそこ世代差があったのに、ドラえもんのバイバインを、みんな知ってたということ。F先生ってすごい。


最後に反省点ですが、事前に自分が好きなテーマで決めると、話したくなりすぎて、色々自分の意見をいいすぎちゃいますね。ぶっ飛んだことも言っちゃって、流れを壊しちゃったような・・・すみません。

実は、僕の中には、(多分、いつも)調和した話の流れをぶち壊したい!という破壊衝動みたいなのがあります。普段は進行役を演じて抑えてるんですが、こういう抽象的なテーマになると、そういうのが顔を出し気味になるんですよね。困ったもんだ。

突然「そもそも、僕たちが生きているかどうかすら怪しい」なんて言われても戸惑っちゃいますよね。進行役が言ってることだから無下にもできないし・・・

けど、進行役でさえ意味わからんこと言ってるんだから、参加者だって適当に発言してもいいんだ、と勇気づける効果を発揮したとポジティブに解釈しておきます!


おまけで、自分向けに、対話しながら僕自身が考えたことを記録しておきます。

生命が限られた寿命を持ち、世代間で遺伝子的な変化が生じることと、生命が複雑さを持ち予測できない神秘さを持っていることとはつながっているんじゃないかな。どちらも、「未来」を抱えているという意味で。

きっと、生命とは、固定的な状態ではなく、「生きる」という「過程」のことなんだろう。(今日出た、「生きるために生きる」という話は、この過程性を指してるのでは。)

だから、生命は、未来のことはわからない、という「わからなさ」を伴わざるを得ない。(今日出た、生物には、インプットとアウトプットの間にブラックボックスがある、という話は、この「わからなさ」を指しているのでは。)

根源的な「わからなさ」があるから、生命を固定的なものとして言葉で捉えようとすると、どうしても大事なものを取り逃してしまう。そして、その取り逃がされたものを僕たちは「魂」や「命」なんて呼びたくなるのではないだろうか。

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