ヨコハマタイワ45(テーマは「スワンプマン」)とヨコハマタイワ46(テーマは「美」)を開催しました

※ 5,000字以上あるので気をつけてください!

1 はじめに

先週日曜日にヨコハマタイワを開催しました。

最近、募集してもすぐに満員御礼のことが多いので、もっと参加したい方がいるかも、と思って午前と午後で2回開催することにしました。

なお、満員御礼になるといっても、大人気な訳じゃなく、人数少な目でやっているからだと思います。あと、参加した方に聞いてみると、東京では哲学カフェが多いけど横浜は少ないとの声も。これって、部屋数が少ない秘境の宿を経営している気分です。部屋数が少なくて予約がとれないだけの宿が、なぜか人気が高いように見えていく感じ。

ということで、今回も希少価値のおかげか、午前・午後とも8名定員でめでたく満員御礼になりました。(午後の部は2名の方が事前に欠席の連絡があり、6名でした。)

ここで、参加いただきありがとうございました、と言いたくなるけど、主催者も参加者も対等なのだから感謝なんてしないぞ、と心がけています。(時々言っちゃうけど。)

2 午前の部 スワンプマン

午前の部は、前回、参加者から提案があったけど没になった「自分と全く同じスワンプマンは本当の自分なのか。」をテーマにやりました。

僕が好きなSF的なテーマです。

どれほど、SF好きでスワンプマン好きが集うのかと思い、ドキドキワクワクしていましたが、皆さんに参加理由を聞いてみたところ、「午前中空いていたから」というのがほとんどでした。気が抜けましたが、振り返ると、いい意味で力が入らず良かったのかな、と思います。

2-1 話の内容

話の内容ですが、まずテーマに出てくるスワンプマンとは、ざっくり言うと、何かの拍子で雷と泥から作られたコピー人間のことで、多分有名な哲学的思考実験の中で登場します。見た目は同じで、体の組成もDNAレベルで全く同じように再現されているスワンプマンは、本当の自分なのか、というのがテーマだということです。

話はまず、記憶の問題から始まりました。

皆で話してみると、参加者が考えるスワンプマンには、昔の記憶を保持しているタイプと、保持していないタイプの二種類があることが判明しました。それならば、どちらのスワンプマンを想定して話すのか、が問題となります。ここでは、本当の自分かどうかを判断するうえでは、記憶は最重要ではなさそうなので、記憶はどちらでもいいのではないか、という方向で話が進みました。まず記憶の問題は切り捨てられたということです。

さらに、自分かどうかを判断する手掛かりは、自分自身の自覚、他者からの指摘、物理的な証拠、といったものがある、という整理が提案されました。そこで、そもそも自覚によって自分自身かどうかを判断するとはどういうことか、を考えたところ、自覚はどうも判断には使えないのではないか、という話になりました。

なぜかというと、自覚が判断に使えるのならば、自覚によって、「これは本当の自分でスワンプマンではない」とわかる場面と「これは本当の自分ではなくてスワンプマンだ」とわかる場面の両方の場面がなければならないのですが、後者については具体的な場面が思いつかなかったからです。つまり、すべての場面で自覚を伴うなら、自覚の有無は判断には使えないということです。

(逆に、無根拠に自分自身はスワンプマンなのではないか、と自覚してしまう場面もありえます。ただ、そうすると、今度は、自覚上、根拠を持って自分自身がスワンプマンではない、と判断できる場面がなくなる、という問題が出てきます。つまり、すべての場面で自覚を伴わないなら、自覚の有無は判断には使えないということです。)

というように、かなり早い段階で、記憶と自覚という要素が使えない、と絞り込まれていきました。

こうして、自分自身の記憶や、自覚といった自分だけに特有の要素が考慮から外されたことになります。

ということは、当初のスワンプマンを使った問いとは、自分自身を自分自身たらしめる要素が何か、という問題でしたが、そこから、自他の区別なく、ある人をある人たらしめる要素が何か、という問題に問いが変わったことになります。具体的には「自分であれ他者であれ、その人と全く同じ身体を持つスワンプマンは本当にその人なのか。」という問いに変わったことになります。(このあたりは大事なところなので丁寧に同意をとりながら進めました。)

そこから導かれた答えは、その人を、その人たらしめているのは、DNAレベルで先天的に与えられた気質のようなものと、そこから所作の積み重ねのような経験のようなものではないか、というものでした。これは、多くの参加者の間でかなり共有された答えだったように思います。

つまり、(最初の問いから少し変化した)「自分であれ他者であれ、その人と全く同じ身体を持つスワンプマンは本当にその人なのか。」という問いに対して、この場で出した答えは、イエス、となります。スワンプマンは、身体的に、DNAレベルでの気質や身体に刻み込まれた経験を再現しているのだから、同一人物である、ということです。

ここまでの流れは非常に見事で、結構驚きでした。答えを出すためには、参加者が不要であると合意した要素を外して議論を絞り、残った要素で議論を組み立てていくことが必要です。そんなことを、これほど見事に遂行できるものなのか、と、参加者の力量と、それを生み出す場の力のすごさを再認識しました。

(参加者の過半数が哲学カフェ初参加だったにも関わらず、です。)

当然、その人をその人たらしめているのは、物理的に再現可能な気質や経験である、という結論に対しては、さらに哲学的につっこむことは可能でしょう。だけど、参加者がきちんと話し合って、ある結論に「ほぼ」同意できたということは、つまり、この場の参加者の間では、この結論が当面の真実として使えるものになったことを意味します。きちんと話し合い、合意して一定の結論に到達する、というのは、実生活で様々な場面で役立ちますが、それをスワンプマンという難しそうなテーマで成し遂げたというのは、ただすごいと思います。

そこから、(記憶がないタイプの)スワンプマンを作り出す泥と雷をもし自由自在に使えたら、どう使えるのか、という話にもなりました。犯罪者の記憶を消すことで更生させられるのではないか、とか、スワンプマンになるという特殊な体験により死の恐怖を乗り越えられるのではないか、など。

これも、とりあえずの結論を導いたならば、様々な場面を想定し、その結論の正しさを検証する、という意味では必要な作業とも言えます。

特に、スワンプマンの沼を、きれいなジャイアンが出てくる泉(ドラえもんのエピソードですが、知ってます?)のように使い、犯罪者を沼につっこんで、つるっとした無垢の元犯罪者をつくりあげ、それを更生させれば、効率よく更生できるという話はすごいな、と思いました。死刑と、このスワンプマン化刑だとどっちが厳罰なんでしょうかね。また、記憶がなく人格も更生してしまった受刑者をどこまで家族は受け入れられるんでしょうかね。僕のそんな疑問に対して、距離が遠い他者としての社会と、身近な他者では、スワンプマン刑の意味合いが変わってくるのでは、という話もありました。

色々興味は尽きませんが、このあたりで時間切れでした。

話の中では、亜人や攻殻機動隊も出てきて、スワンプマンというテーマは、意外と裾野が広く、多くの人が興味を持てるテーマなんだな、と感じました。

スワンプマンにたいして興味がない人でも、スワンプマンを語ることは十分に可能である、というのは収穫でした。

3 午後の部 美

お昼は、一人で散歩しつつ、近所でハンバーガーを食べて、いよいよ午後の部です。(ぶらりと入ってメニューを見たら、ドリンクとセットで3000円近くしてびびったけど、席についちゃったから観念して食べました。混んでて美味しかったから有名店なのかな。)

6名で、その場でテーマ出しするところから始めました。

「最近どう、を苦手に感じるのはなぜ?」「人はなぜ水辺が好きなのか?」などなど、魅力的なテーマが出ましたが、多数決で「美しさってどういうこと?」に決まりました。

僕は「最近どう?」って言っちゃうし、海外のビーチリゾートが大好きなので他のテーマもよかったのですが、美については、ほとんど考えたことがなかったので、それはそれでワクワクしました。

実は、僕は、哲学的な真とか、倫理学的な善については考えても、美学的な美はあんまり考えたことがなかったんですよね。

だから、ここからは、参加者の発言の流れを追っていくのではなく、僕が、この対話を受け、美についてどう考えたかだけを書き残しておきます。

3-1 美についての考察

僕は、美という言葉があまり好きではなかったのだけど、それは多分、押し付けめいたところがあるからなのではないか。

ウユニ塩湖やクラシック音楽など、世には美しいもので溢れている。確かにそれらは美しいとは思うけれど、僕にとって大事なのはもっと心が動くもので、クラシックよりロックのゆがんだギターソロのほうが好きだ。それを美しいと呼ぶかはともかく。

そんな僕が、対話を通じて気づいたのは、美とは複合的な概念だということだ。シンメトリーや必要十分さといった他者と共通の物差しで測定できる客観的な美と、ただ心が動くという意味で極めて「好き」に近い主観的な美である。

そして、心が動くという意味での主観的な美には、限定、切り取りの要素が含まれている。その対象のすべてをだらだらと再生するのではなく、もっとも大事なところを切り取り、圧縮することで、その対象そのもののあり方を少しだけ超えた先を示す。

時に、写真がモデルより美しいのは切り取りがあるからで、時に、フラワーアレンジメントが自然の中の花よりも美しいのは、デフォルメと言ってもいい圧縮があるからではないか。

(参加者が、ものごとの終わりの潔さこそが美しいと言っていたけれど、それは、この切り取りの効果なのではないか。例えば、早世したロックアーティストや織田信長のように潔く人生を終えることで、その人生が切り取られ、美しい人生という物語となるのである。)

また、主観的に美を受け取るにあたっては、その対象となる作品と作者とを厳密に区分することはできない。だから、美しいというとき、その作品だけではなく、その作者の生き方を美しいと捉えていることもある。

こうして、美は美徳ともつながる。「その人」の生きざまを、ひとつの作品として捉え、その美しい人生の作者としての「その人」に備わっている内面を、人は美徳と呼ぶのである。

美とはこのように様々な側面があり、複雑なものである。だから、美を捉え、心を動かされるためには、鑑賞する側にも解釈の知識や時間が必要となることもある。そこから、ウユニ塩湖のように解釈があまり要らない「即時的な美」と、背景知識(作者の生き様など)が重要となる文学作品のような解釈に「時間のかかる美」という違いが生じる。

さて、ここまでの美は主観的な私的な美という側面が強かったけれど、社会が規定し、共有される客観的な美もある。中世の宗教画の神は、平面的に描かれているけれど、それは様式上、美しいものとして描かれており、それは個人の感じ方以前に、社会的に「美しい」と規定されている。

また、そのような客観的美を共有することにより人々がつながり、いわば、美が共同体を規定しているという側面もある。社会が美を規定するだけでなく、美が社会を規定しているのである。

だから、もし、美がもっぱら主観的なものとなってしまえば、社会は分断してしまうだろう。

こうして、美とは、個人にとって重要であり、かつ、社会にとっても重要だということになる。個人にとっての美と、社会にとっての美とが対立することはあっても。

最後に、ここまで主観的な美と客観的な美を対立的に捉えてきたが、二つの美には共通点もある。いずれの美にも「手の届かなさ」のようなものが含まれているのである。

だから、美に向かって、僕という個人の主観的な内面は動いていくのだし、客観的な社会も、美に向かって動いていく。だから、美とは、人間や社会を動かすエネルギーそのもののことだとも言える。

それならば、普遍的な美的エネルギーというものがまずあり、それが個人に及んだ時に主観的な美となり、社会に及んだ時に客観的な美となる、ということなのかもしれない。

3-2 午後の部の感想

この話は、ほぼ、午後の対話のなかで出た言葉を僕なりに再構築しただけのものです。キーワードとしては、ほとんど新たなものは付け足していません。

それでも、こうやってお読みいただくと、なかなかいい話になっていると思いませんか。僕は、この対話の中で、美について、多くのことを学んだような気がします。

4 さいごに

ということで、スワンプマンという日ごろから馴染みがあるテーマと、美という、あんまり考えたことがないテーマ、その両方ができて贅沢な一日でした。

終わった後、缶ビールを1杯だけ、午後の部の参加者に祝ってもらいました。帰ったら疲れが出て早く寝てしまいました。お疲れ様、皆さん。そして俺。

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