ヨコハマタイワ47を開催しました テーマは「感情ってどう扱えばいいの?」でした

今週の日曜日は、ヨコハマタイワ47でした。
テーマは、僕が事前に考えた「感情ってどう扱えばいいの?」で、8名の定員で、ほぼ即日完売でした。(無料なので売ってませんが)
人気があったのは僕のテーマ設定が良かったからなのかな、と上機嫌で参加者の一人に聞いたのですが、「テーマを持ち寄って決めるのは、事前にテーマを考えるのが負担だから」とのこと。僕のおかげではなくて残念(笑)
ちなみに、テーマを「感情ってどう扱えばいいの?」にした理由は、僕自身、感情の扱いに苦手意識があったからです。時間や存在については日頃から色々考えているのですが、正直、感情のことはどこから考えたらいいのかわからない、という思いがあり、それならば皆さんの意見を聞いてみたいと考えたのです。
冒頭で、参加者の方に、その苦手意識について説明したのですが、うまく説明できなかったので、再度説明を試みます。興味がない方は飛ばしてください。
僕は、子供の頃から、感情を出すと余計なトラブルが起きてろくなことがないと思ってきました。理屈上正しいことなら正しいと主張できるけど、感情で何か言ったことが単なる我儘と受け止められたら、それ以上言い返せない、と半ば無意識に考えていたように思います。
そうやって感情を切り捨てて正しさばかり気にして生きていると、確かに楽なのだけど、それでも、切り捨てたつもりなのに実は積もり積もっていた感情が疲れとして表面化したり、人の感情がわからなくなってきたり不都合も生じてきたように思います。
感情ってなくなる訳じゃなく、ただ解像度が落ちるだけなんですよね。
そこで、このままではいけないと、最近、感情との付き合い方を見直そうとしているところなんです。

ということで、僕の「感情ってどう扱えばいいの?」というテーマで2時間近く話したのですが、皆さん、僕の関心に沿って、本当に色々考えていただきました。
僕の問題提起どおり「扱う」というところにも焦点を合わせてくれて、感情をコントロールする、というアイディアもきちんと出してもらえました。
そのアイディアに従い、扱うことをコントロールと言い換えるならば、感情をコントロールできる時点には二つあって、まず、感情が心のなかで生じる時点での第一のコントロール、そして、生じた感情を相手に伝えるときの第二のコントロール、という二重のコントロールができるということでした。
そこで、特に大事なのが、相手に伝えるかどうかという第二のコントロール。
怒りを相手にぶつけたり、楽しかった思い出を友達と共有したり。それをどこまで出すかどうかが「扱い」の中心テクニックとなるようです。
ただ、感情を言葉にすると、感情の形が変わってしまう、という話もあったし、いや、伝染するようにして感情はそのまま伝わる、という話もありました。また、感情を出さないと、忘れてしまい、感情はどこかにいってしまうという話もあったし、感情を抱えることで味わい続けることもできるという話もありました。むかつくクラクションを例に、怒りを相手に伝えることで収まるように、感情は言葉にすることで解消する、という話もありましたね。
第二のコントロールとは、いわば言葉によるコントロールなのでしょうが、どうも、言葉による感情の扱いは一筋縄でいかないようです。
だからか、言葉以前の第一のコントロールの重要性についても話があり、フィードバック・フィードフォワードという用語を使って、事前に備えておくことで、感情が生じるような事態が避けられるようコントロールすることもできる、といった話もありました。修行中のお坊さんが心を鎮める話もありましたが、この第一のコントロールにあたるのかもしれません。
僕が子供のころからやってきたのは、感情を抑えつけて切り捨てるという、やり方を間違えた第一のコントロールだったのかもしれないなあ、などと思いました。

あと、特に感情を扱う姿勢にも関わる話として、悲しみのようなネガティブな感情にも、華やかさ、彩のようなものがあって、それはそれで大事だ、という話もありました。
そこで僕から、ネガティブな感情とポジティブな感情では、そもそも感情の扱い方は違うのか、という問題提起をしたのですが、すべての感情は「心の動き」であり、そこに本質的な違いはない、というのが、この場での共通認識だったように思います。
その中で、「理性も心の動きであり、感情である」という話が出て、正直、僕は驚きました。僕は、感情と理性は対立するものとばかり思っていたけれど、そうくるか、という驚きです。では、理性が他の感情とどうちがうのかというと、「理性とは、うまく扱うことができた感情のことだ」とのことでした。斬新なのに意外と説得力があって、やっぱり人の話って聞いてみるものだなあ、と思いました。
さらには、「感情は自分という存在のすべてである」という話まであって、すごい、と圧倒されると同時に、確かに、理性も感情ならば、すべてが感情と言えなくもないなあ、と半分わかるような気もしてきました。

こうして話していくうちに、そもそも「感情を扱う」つまり「感情をコントロールする」というやり方が間違えているのではないか、という気がしてきました。感情とは、理性を含めた心の動き全般のことであり、ネガティブな感情でも華やかさがあるならば、感情をコントロールして押し殺すべきではないのではないか、と考えたのです。
一方で、怒りをうまく発散するように、明らかにコントロールしたほうがいい場面もある。コントロールの仕方以前に、コントロールしたほうがいいのか、しないほうがいいのか、どっちなんだい、とわからなくなってきました。

そこで心に残ったのが、参加者の「本当の感情」という発言でした。体調が悪かったり、心が落ち着いていなかったりすると、本当ではない感情が出ることもある。お坊さんが精進料理を食べて、早起きして庭を掃除するように心を落ち着けたなら、本当ではない感情は抑えられ、本当の感情だけが出るようになる、という話でした。
僕は、お坊さんというと、瞑想して意図的に感情を落ち着かせるようなイメージがあったけれど、そうではなく、自然なあり方に戻れば、おのずと本当の感情だけが出るようになる、ということのようでした。
実は、この話の前に、感情の扱いについて、「感情をちょうどよく、自然に出すのがよい」という話があり、僕は、自然って具体的にどうすればいいんだろう、とピンとこなかったのですが、こういうことなのかもしれない、と気づきました。
感情を無理に扱うのではなく、感情の扱いなど気にせず、まず、できるだけ自然に過ごす。そこで生じるのが本当の感情である。生じた本当の感情は素直に受け入れて、無理にコントロールせずにそのまま出せばいい。
これが、この場で僕が学んだ当面の感情の取り扱い方針です。なかなか収穫が多い対話でした。皆さん、僕の疑問に一緒に考えていただきありがとうございました。
(あと、言葉による第二のコントロールについて、純粋にテクニックの問題と捉えて、場数をこなして上達することで、うまく感情を扱えるようになる、という話もあり、そっちのアプローチも魅力的でした。)

最後に、参加者全員から感想を聞いたのですが、人によって目の付け所が全然違って、当然、ここまで僕が書いたような受け止めをした人は一人もいませんでした。同じ対話でも参加者によって受け止めが全然違うというのが面白いんですよね。
僕のヨコハマタイワでは、問いのかたちで設定したテーマに対して、参加者全員が共有できる一つの答えを出すことを目指す、というスタンスを強調しているのですが、目指しつつも、全然そうならない、というのが哲学対話の魅力なんでしょうね。
皆さん、お疲れ様でした。結局、ひとつの答えなど出ないじゃないか!なんて思わず、またご参加ください。

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