ヨコハマタイワ49・50の記録 テーマは「人生を生きる理由が人によって違うなら、その違いはどこから生じるのか。」と「あなたにとって旅ってなんですか。」

先週土曜日は、区切りとなるヨコハマタイワの49回目、50回目の連続開催でした。
昔のブログの残骸を調べたところ、第1回は2016年(平成28年)4月10日(日)14:00-16:30でした。ちょうど10年ですね。
ということで、コロナ前は、もうやらなくていいかな、と思っていた時期もありましたが、最近は月1くらいのペースでやってます。
なんでコンスタントにやるようになったのか、自分でもよくわかっていませんが、ペースがつかめてきたのかな。たいてい午前中にさくっとやって、自分に負担をかけてないのがいいんだと思います。
だけど、ときどき負荷をかけたくもなるもので、今回は、50回目記念で、午前中は会議室で普通に開催、午後は居酒屋で哲学カフェならぬ哲学居酒屋でした。

まず、午前中ですが、僕が考えた、「人生を生きる理由が人によって違うなら、その違いはどこから生じるのか。」というテーマでやりました。
8名定員で満席のはずが、手違いで7名でした。そのうち2名は初参加とのこと。
このテーマは、僕が気になっていたものですが、スタートからつまずきました。僕にとって「人生を生きる理由は何か」という問いは自明なものだったのだけど、参加者にはうまく伝わっていなかったようで、どうも話が噛み合いませんでした。
僕は、なぜ生きないのではなくて生きるのか(あえて死ぬかどうかという意味に限らず)という問題は、当たり前に共有できるものだと思っていました。
だけど、皆さんにとって、生きることは、必ずしも能動的なものではなく、いわば「当たり前の前提としての状況」であり、そこをあえて議論する必要はない、という受け止めのようでした。
そこで、テーマを見直して「どのように人生を生きるかが人によって違うなら、その違いはどこから生じるのか。」というものに設定し直しました。生きるかどうかではなく、とにかく生きるとして、その生き方の内容に違いが生じる原因は何か、を問題にすることにしたということです。
正直、当初の僕のテーマ設定がまずかったのだと思います。僕に思い入れがあるテーマにすると、僕だけが理解できる課題設定になり、参加者と認識を共有できなくなる、というトラブルが生じがちです。だから、最近は、極力、参加者のテーマでやっているのですが、ヨコハマタイワを始めた当初は、こういう問題がよくあったように思います。
あの頃は、まずいテーマ設定であっても、そのまま突っ走って不完全燃焼になっていたように思いますが、今回、その場でテーマを見直し、組み立て直せたことは、僕のファシリテーションも成長したのかも、と自画自賛です。まあ、こういう問題が生じないのがいいのですが。
ということで、30分近くロスしたような気もしますが、リスタート。
生き方の内容に違いが生じるのはなぜかというと、要は価値観の違いであり、好きなことや大切なことが違うから、ということになります。
まあ、それはそうだとして、そこからさらに、価値観の違いだけでなく、選択肢がなくて、選びたくても選べない、という違いもある、という話がありました。
たしかに、ネギトロと大トロのどちらを食べたいかは、単なる価値観の問題であり人それぞれなので更に哲学的に語るべき問題はありません。だけど、本当は大トロを食べたいのに高いから食べられない、という問題は、人生の生き方の違いを考えるうえでは重要な問題のように思います。(大トロという例はその場では使われませんでしたが。)
そこから、(大トロを選べるような)選択の実質的自由についての話になりました。まず選択肢があるという情報が必要だとか、情報がありすぎると、(お金がないのに大トロという)実質的に不可能な選択肢まで見えてしまう、といった話もありました。また、健康を損なったりして、選択肢が奪われることもある、といった話も。あと、言葉によって、選択肢があることが見えてくるという側面もある。(だから、乏しい語彙しか持たない言葉ならば、選択肢があることが見えにくくなる。)
といった話しながら、生き方の違いがテーマのはずなのに、なんで選択の自由の話をしているんだろう、とわからなくなってきました。
ただ、話しているうちに、徐々に「人によって生きる内容が違うのは当たり前だけど、その生き方が本人にとって望ましいものとなるかどうかの違いはどこから生じるのか。」という問題について話していることがわかってきました。(対話の中では、そこまで明確ではなく、今、こう書いていてようやく言語化できているのですが。)
哲学対話をしていると、その場では、何について話しているのか言葉ではうまく共有できないのに、後から振り返ってみて、ああ、あの場ではこういう問題意識を共有していたのだと気づくことが時々あります。今日のあの場もそういう感じだったように思います。(この言葉の外での議論の見失いと再収束というのは言葉のあり方として面白い現象だと思います。)
本当は、話題がずれてきたら、そのずれを言語化して確認するのが進行役の役割なのでしょうが、それができないことも込みで、対話って面白いな、と思います。
そこから、様々な選択肢が失われても、それでも生きる「しきい値」のようなものがあるのではないか、という話に。こうして、当初僕が考えていた、「そもそも生きるかどうかは、どうやって決まるのか」という問題に戻ってきたように感じました。
つまり、当初の僕の問いに対するこの場で出た答えは、僕たちが「しきい値」以上の何らかの「余裕」を持っているかどうか、ということになります。「余裕」が生きることと繋がるっていうのは面白いアイディアかも。
以上、一本線で展開したように描写しましたが、実は、対話の中では、もうひとつ問題が提起されていました。「大トロかネギトロか、といった未来を思い描いて、どちらが自分にとって望ましいか選ぶ」というような過去の延長線上に未来を捉えるような生き方はしたくない、という問題提起です。「選択の場にあるのは、今、この場の信念だけであって、それを評価できるのは、最後に死ぬ時だけだ」というものでした。(かなり僕なりの解釈で言い換えてます。)
その考え方に基づくなら、普通の意味での選択肢などなく、ただ、信念に従って生きているだけだ、ということになります。知識や言葉や健康など関係なく、ただ信念だけあればいい、ということにもなるでしょう。
それはそれで面白い話だなあ、と思いました。ですが、このあたりを掘り下げたかったところで時間切れ。皆さんお疲れ様でした。

午後は、午前の部の参加者のうち2名と一緒に暑い中、居酒屋まで移動。ビールがうまそう。到着して間もなく、午後から参加の3名といっしょに僕を含めて6名で哲学居酒屋開始。哲学カフェというとイベント名っぽいけど、哲学居酒屋と言うとヤバい店っぽくなるのはなぜだろう。
哲学居酒屋をやってみて始めに気づいたのは、飲み物食べ物の注文や、一杯目や食べ物の到着でグダグダになって、なかなか対話モードにならないということ。
席は半個室だったし、音楽もそれほど大きくなくて、6名だったら普通に話せました。8名だと厳しいかもしれない。
ということで、ようやく哲学居酒屋開始。テーマは僕が設定した「あなたにとって旅ってなんですか。」でした。ふんわり話せそうなテーマだし、旅好きとしてはいつか話したかったテーマです。
ここで、普段なら、細かく対話の内容を記録するのですが、ホワイトボードの記録はないし、お酒も入ってるので、ざっくり。
僕が想定していたのは、あくまで、参加者それぞれの旅について話を聞くというものでした(テーマが「あなたにとって」なので)が、意外と突っ込んだ話ができて、参加者の間で共有できる「旅」というもののあり方について一緒に探ることができました。

旅というのは、必要ない人にとっては、あってもなくてもいいものである。だが、旅が必要な人にとっては、(少なくとも一人旅は)人生経験を積む場であり、普段の自分の殻を脱ぎ捨ててデフォルト状態としての自分自身に戻る場でもある。そして、そのような日常とは異なるモードに入れる高揚感を与えてくれる場でもある。
だから、旅で重要なのは自分自身である。観光スポットなど外部に向かう目線ではなく、自分自身に向かう目線である。旅で苦労したり、淋しくなったりすることも含めて。
そして、自分自身に対するものではないけれど、同じ人間に対する目線という意味では、旅先での人との出会いも重要である。旅先では、普段は話すこともない人と話すことができる。職場には職場の振る舞いのプロトコルがあり、旅先には旅先のプロトコルがある。特に日本人は旅先の自由なプロトコルが必要である。
そのようにして旅先で手に入れたものを、日常に持ち帰ることもできる。それが旅の意義とも言える。
ただ、突き詰めると、旅で手に入れられることは、日常でも手に入れられる。旅先のような自由なプロトコルは職場でも適用できうる。
よく言われるように旅とは自分探しでもあり、本線としての自分の人生に対比するならば脇道でもある。だから、自分探しを終えたなら、旅という脇道から戻り、自分の人生を生きるべきである。
なお、以上のような話は、旅を必要としない人から見ると、旅好きは頑張って生きてるなあ、という感想にしかならない。旅好きは、あるべき生き方を目指して頑張りすぎているようにも見える。(その生き方の押し付けにならないよう気をつける必要がある。)

というような話だったように思います。
哲学居酒屋は、参加者からは好評だったので、時々やろうかな。ただ、主催者としては、安全性の確保にちょっと注意が必要そうにも思いました。どうしても、きっちりと目配りした進行はできないし、良くも悪くも私的な話が出がちになります。リスクは大人なんだから参加者が自分で配慮してね、と言える範囲でやったほうがいいかな。
ということで、100回目指してやっていくぜ!

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