ヨコハマタイワ53振り返り テーマは「本当の自分はいてるんか?」
今回は、ファシリテーターをやりたいという方がいたのでやっていただきました。
書いてないけど、ぬいぐるみを使ったり、僕とはちょっと違う進行を楽しんでいただけたのではないでしょうか。
僕の感想も最後に少し書いてます。
9月27日の哲学対話に参加してくださったみなさん、本当にありがとうございました。
そして、参加してくださっただけでなく、その場で一緒に考え、迷い、言葉を交わしながら、対話的な場をともにつくってくださったことにも、改めて感謝しています。
今回のテーマは、
「本当の自分はいてるんか?」
でした。
今回、私は初めてファシリテーターを務めました。
始まる前は、それなりに緊張していました。
けれど、始まってみると、そんな心配はほとんど必要ありませんでした。
最初の問いから、参加者のみなさんの言葉が次々と出てきました。
「心の中の自分と対話することがある。本当の自分ってなんだろう、と考えることがある。」
「相手によって態度を変えるのは、本当の自分が出せていないということなんだろうか。」
「一人でいるとき、我が子と向き合っているとき、お酒を飲んでいるとき。それぞれ違う自分がいるけれど、どれが本当の自分なんだろう。」
話を聞いているうちに、「本当の自分」というものを一つに決めようとすると、どうしてもこぼれ落ちてしまうものがあるように思えてきました。
そんな中で、
「いろんな自分がいて、一つに決められない。全部が本当の自分と言っていいんじゃないか」
という言葉が出てきました。
これは、かなりしっくりきました。
一人でいる自分も、誰かといる自分も、子どもといる自分も、仕事をしている自分も、お酒を飲んでいる自分も、どれかが「本物」で、どれかが「偽物」というわけではない。
そう考えると、「本当の自分」というものは、最初からどこかに完成した形で存在しているものではないのかもしれません。
私自身がこの対話の中で特に面白いと思ったのは、「言葉にする」ということでした。
心の中の自分と対話する。
考えていることを書き綴る。
誰かに声に出して伝える。
そうやって自分の中にあるものを言葉にしたとき、初めて「本当の自分」が姿を現すのではないか。
自分の中から何かが溢れ出てきて、それが言葉という形になったときに、初めて自分自身にもそれが見えるようになる。
そんな感じです。
「もちろん、その言葉を発した自分も本当の自分なのでは?」という方もいて、これも確かに!と思わされました。
でも同時に、自分という器の中にあったものが外へ溢れ出し、言葉という形になって初めて、「ああ、自分はこんなことを考えていたんだ」と認知できることもあるのではないでしょうか。
そう考えると、哲学対話そのものが、自分の中にある「まだ言葉になっていない何か」を外に出す場なのかもしれません。
そして、そもそも人は、いつ「本当の自分」を問うのかという話に。
極端にしんどくて、そんなことを考える余裕すらないとき。
逆に、何もかもうまくいっていて、絶好調のとき。
そういうときには、あまり「本当の自分」を探そうとはしないのかもしれません。
むしろ、その間。
少し迷っているとき。
少し立ち止まる余裕があるとき。
これまでの自分を振り返ったり、「これからどうしようかな」と考えたりするとき。
そんなときに、「本当の自分ってなんだろう」と考え始めるのではないでしょうか。
特に、環境が変わったとき。
仕事が変わったり、家族との関係が変わったり、子どもの成長によって自分の役割が変わったり。
そういうとき、新しい環境に合わせて、新しい「自分」が出てくる。
その自分を見ながら、「これも自分なのかな」と考える。
「本当の自分」という問いは、実は自分探しというより、変化していく自分を眺めるための問いなのかもしれません。
そんなことを考えながら、休憩を挟んで後半へ。
後半は、少し角度を変えて、
「本当の自分」の反対は何だろう?
というところから、「本当ではない自分」「偽りの自分」について考えました。
ここでは、かなり重い話も出ました。
うつ病や離人症などの状態にあるとき、その人の「本当の自分」はどこにあるのだろう、という話。
また、他者との関係の中で、自分を守るために出てくる「もう一人の自分」の話。
特に、苦手な人や嫌いな人と関わるときには、本音を言わず、相手に合わせたり、何かを演じたりすることがあります。
「本当はそんなことを思っていないけれど、今はこうしておいたほうがいい」
そんな自分です。
でも、それは「偽りの自分」なのでしょうか。
自分を守るために身につけた振る舞いなら、それもまた自分の一部なのではないか。
そう考えると、「本当の自分」と「偽りの自分」をきれいに分けることは、やっぱり難しい。
最後は、他者との関係に焦点が移っていきました。
ママ友との関係。
飲み屋で出会った人との一期一会の関係。
利害関係がないからこそ本音を話せる。
もう二度と会わないかもしれないからこそ、かえって本当のことを話せる。
そんな話を聞いていると、「本当の自分」というのは、自分の内側だけにあるものではなく、誰と、どんな関係の中にいるかによっても現れ方が変わるものなのかもしれないと思いました。
そして、最後まで考えてみても、「本当の自分」がどこかに見つかったわけではありません。
むしろ、「本当の自分って、一体なんなんだろう」という問いが、少し前よりも大きくなったような気がします。
でも、哲学対話って、それでいいのだと思います。
答えを見つけることよりも、問いを持って帰ること。
誰かの言葉によって、自分では考えたことのなかった方向へ考えが動いていくこと。
自分の中にあったけれど、まだ言葉になっていなかったものが、誰かとの対話をきっかけに少しだけ形になること。
今回の対話は、まさにそんな時間でした。
そして何より、ファシリテーターである私の出番は、ほとんどありませんでした。
……いや、正確には、時間配分を失敗してしまったので、そこは本当にごめんなさい。
それ以外は、参加者のみなさんがそれぞれの言葉を持ち寄り、ある人が具体的な経験を語り、別の人がそこから少し距離をとって問いを捉え直し、また別の人がそこに自分の経験を重ねる。
そんなふうに、みなさん自身の力で対話が動いていきました。
初めてファシリテーターをしてみて、結局のところ、ファシリテーターが「対話をつくる」のではなく、参加者一人ひとりが言葉を持ち寄ることで、そこに対話の場が立ち上がっていくのだな、と感じました。
今回の場をつくってくださったのは、私ではなく、参加してくださったみなさんです。
本当にありがとうございました。
僕の感想 ※同じ場にいた二人の感想を並べるのも面白いかな、と思って書いてみました。
進行役をやっていただいた方も書いていたけど、前半の話で出たように、言葉(書くこと)と本当の自分自身は切っても切れない関係にあるように思う。マインドフルネスでもジャーナリングっていう技法があるし、心理療法でも、認知行動療法では書くことを重視してると聞いたことがある。
あと、僕が発言したのだけど、本当に大変なときや、本当に満ち足りてるときは、本当の自分のことなんて考えない、というのも、多分、多くの人が体験していることだろう。本当の自分を考えるのは、ものごとが変わりつつある過渡期特有のことで、このままではいけない、っていうエネルギーの過剰さが、本当の自分を追い求めさせるのではないだろうか。
後半で出た話では、ママ友同士のおしゃべりのような、全然人の話を聞いてない場も、この哲学カフェのような、しっかり人の話を聞く場も、どちらも本当の自分が出せる、という話が興味深かった。多分、ママ友と哲学カフェで共通しているのは目的のなさだろう。一方で会社のような目的がある場では、自分を出しにくい。自分を出すよりも大事なことが会社にはあるから。
前半の話と後半の話で共通しているのは、(前半の話のような)自分の内面の事情が理由にせよ、(後半の話のような)外的な事情が理由にせよ、状況が固定しているときには自分自身(の問題)から遠ざかるということ。会社は目的に向かって効率よく進むために肩書や就業規則などで人間関係を固定している。ママ友や哲学カフェはそうではないけれど、きっとママ友や哲学カフェも期待される役割が固定したら自分を出しにくくなるだろう。
また、書き言葉にせよ、話し言葉にせよ、自分自身は言葉で表現するということも、前半後半で共通している。
自分自身というものが、状況の変化/固定や言葉と深く関わっているというのは、かなり収穫だった。
